ある春の日

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ある春の日

柔らかな日差しが降り注ぐ。華やかさを増した庭はその光を受けて楽しそうに揺れていた。鳥は暖かさを喜ぶように空を舞い、可愛らしい歌を囀る。少し前までは茶色い枝ばかりだった木々は桃色の花を咲かせ始め、緑の蕾が今か今かと膨らんでいる。 縁側に腰掛けて眺める春に染まり始めた風景。その長閑さと穏やかな日の光。いつもと同じはずなのに、どこか柔らかく見える青い空が美しく思えた。 「小春日和ですねぇ。小春だけに」 自分で言ってけらけら笑う。しかしどこか虚しい。共に笑ってくれる人がいないからか。小春とは私の一人娘の名だ。名の通り、あと数日で歳をもう1つ数える。まだ幼い、病弱であった妻の忘れ形見だ。こんな良い天気、子供には大層嬉しく思えるのだろう。朝早くから出掛けて行った。都会の方では最近物騒らしいが、こんな田舎では警戒するだけ馬鹿を見る。未だに鍵かけすらまともに行わないような辺鄙な村だ。誰がどこに行ったかなど筒抜け、少しでも離れたところに赴いたのならすぐにでも知らせが来るだろう。 「長閑で絶好のお昼寝日和ですねぇ」 微睡み瞼が重くなるのを感じながら、老人のように呟いた。 「にゃあ」 「おや、散歩ですか?」 家の陰から庭へと愛らしいシルエットが覗く。こちらに越してすぐから見かけていたのだが、懐いてくれるようになったのはほんの最近だ。白と黒と灰の入り交じった落ち着いた色合いの毛皮はふわふわとして心地がいい。つぶらな黄色の瞳は眠たげに細まっていて、躊躇いのない欠伸は最早爽快だ。しかしそれでも微睡みも覚めるような美しい顔立ちは損なわないのだから、モデルも顔負けである。 「良い天気ですよね。私も散歩しましょうか」 久々に立ち上がって伸びをする。着流しの袖が春風に誘われてはためいた。深い紺のこれは気に入っているが、春には少々似合わないかもしれない。色とりどりは女性の特権であるが、少しくらいは洒落てもバチは当たるまい。 「おや? もう行くんですか?」 いつもなら足下にまとわりつくか、側で丸くなるか、おやつを貰うまで鳴くかの3択であるというのに、今日に限っては私を見るなりすぐに後ろを向いてしまった。ふさふさとした冬毛の尾が揺れている。もう少しで毛が抜け細くなってしまうと思うと、目に焼き付けておきたいような気もするのだが。 私が意図を読めずに立ち止まっていると、彼女は首だけ振り返って再度、にゃあ、と鳴いた。 「ついてこい、ということですか?」 返事は待たないようだ。4本の足を忙しなく動かしあっという間に庭から道へと出て行ってしまう。慌てて後を追って駆け出した。戸締りはしていないが、こんな田舎に泥棒が踏み入らないことを願っておこう。枯れた民家より初々しい花々を愛でる心ぐらい、泥棒とて持ち合わせていると信じて。 「あらあら、作家の先生。こんな春の日に何を急いでらっしゃるの? また担当さんから逃げているならうちへいらっしゃいな」 道を歩いていた恰幅のいい女性が手を上げて声を掛けてきた。止まって応じながらも、道を挟む草々の間に生えた小さな春達が目に止まる。その慎ましやかでいながらも不思議と存在感のある存在がどうにも心に響いてふ、と微笑みながら首を振った。 「気持ちは有難いのですが違うんですよご婦人。お嬢さんが1匹通りませんでしたか?」 「あらあら、ええ通りましたよ。あんな可愛い子と知り合いだなんて、先生も隅に置けませんねぇ」 「見ての通り手の平で、いえ肉球で弄ばれていますけどね。どうもありがとうございます!」 舗装もまともに行われていない土の道を早足に去って行く。後でお菓子食べにいらしてー! と背中に声をかけてきた女性に振り向いて小さく頭を下げた。 妻の療養のため、喧騒の酷い都会から逃げるように移住してもう何年になるのか。結局小春を産んですぐに他界した妻共々、優しく気前のいいこの村の人達にはお世話になっている。高い建物など何一つとしてなく、立ち並ぶ平屋のどこへ行っても山を抜けることはない。閉鎖的なようでどこまでも奔放だ。そういう村でも見失えるのは、単に猫という種族の小ささとしなやかさの成し得る技か。私では到底通り抜けることの叶わない細道や、遠慮なしの民家への立ち入り。全くどこへ誘っているのやら。ようやく視界に捉えたと思うとまたどこぞへ消えてしまうのだ。 「おやおや作家先生や。1人かい?小春ちゃんはおらんのかえ?」 今度は畑で仕事をしているお爺さんに声を掛けられた。まだ植えるものがそんなにないのか、まさに植えるところなのか、耕された部分とそう出ない部分が疎らな畑にも、所々緑が見える。いつから作業をしているのかこの季節でも汗を拭い、土に汚れた鍬を片手にした姿はまだまだ現役に見える。尊敬と、娘に対しての苦笑も混じえながら足を止めた。 「早くから何処ぞへ出掛けておりまして。春だから浮き足立っているんでしょう」 「はっはっはっ。子供は元気が一番。特に今は小春ちゃんの季節ですからなぁ。しかし何かあったらことだ、少しでも変わったことがあったら何でも言いなさい。こんな老いぼれでも力になりましょうぞ」 「どうもありがとうございます。さっそくで申し訳ないのですが、可愛いお嬢さんを見ませんでしたか?」 「はっはっ、あのお転婆な娘さんですな。ええ通りましたとも」 指さされた先の畑の1部分には、小さく可愛らしい浅い足跡が点々と向こうの道にたどり着くまで続いていた。 「堂々とした不法侵入ですね……」 「あの小さな足跡でどうこうなるほどやわな野菜はありませんよ。まだまだ作っている途中ですしなぁ」 「作業中にお邪魔してすみませんでした。彼女を追っているので失礼させて頂きますね」 「なんの。呼び止めたのはこちらです。女性は逃げ足が速いもんで、悪いことを」 「いえいえ教えてくださってありがとうございます!」 頭を下げ、もちろん畑は迂回して向かいの道へと向かう。 塀代わりに植えられている低めの木々は既に葉が芽吹いており、夏のように青々とした体を春風に震わせている。風情ある中を着流しをはだけさせてまで何をしているのやらと思わなくもないが、どこからか香る花を想うとそう悪くもない。やはり大きな工事をしないからか、立派な桜や梅が多く植わっているのだ。春だけではなく他の季節も楽しみになる、そんな村だ。 「あれ、作家せんせーじゃん。着物はだけすぎでしょ何してんの?」 「これは見苦しいところを。お転婆なお嬢さんを見ませんでしたか?」 いそいそと服を整えながら尋ねる。この村では珍しい若い女性だ。桜の木の下にある寂れたベンチに腰掛け、足をプラプラさせながら、彼女は自分の後ろの道を指さした。 「こっちに走ってったよ。何、追っかけ?」 「ええ。美人を前にすると取り乱すのが男でして」 「あたしは美人じゃないっての?」 「まさか。桜の下にいる女性は美しいものですよ」 「濁してない? ま、いいけどね。にしても美人の追っかけなんて公言しちゃっていいの? 奥さんに言いつけてやる」 「それは……やめて頂けませんか。しばらく立ち直れません」 「ふっふーん、止めて欲しかったら次の小説出来たらすぐ読ませてよね! あたし先生の愛読者だからね!」 「あはは、有難いですね」 「今もネタ探して追っかけしてんの?」 「いえ。これはなんというか、なんでしょうね。美人によく有る手玉取りでしょうか」 「よくやるわー」 呆れ半分面白半分に笑いながら頭に乗る桜の花びらを取る彼女に頭を下げ、ベンチを通り過ぎて行く。実際なんの意図も無いかもしれないが、それはそれで出不精に終わりかけたうららかな春の日を満喫出来たのだから十分だ。 少し進むと木々が生い茂り蔦が絡んだ、人1人通るのが精一杯の自然のトンネルへと足を踏み入れる。何度か木の根に足を取られながらも抜けた先には、少し開けた場所が木々に囲まれ、その中央には巨大な池がある。1人の中年男性が椅子に座って釣りをし、そこから少し離れたところに佇む目当ての彼女と、更には。 「小春!?」 安らかな顔で彼女の足元で転がっている娘の姿があった。 具合でも悪いのかとと慌てて駆け寄るが、すやすやと眠っているだけであった。嬉しいやら虚しいやらため息を吐く。つんつんとその頬を猫が鼻先でつっついた。 「おや、作家先生じゃねえか」 1度引き上げた糸をもう一度池に放ってから、日に焼けた顔でにっこりと笑った。 「良かった良かった、早くに来て1人で遊んでたんだが俺が魚釣ってる間に寝ちまったみたいでよう。誰かに先生呼びに行かせようかと思ったんだが、目離す訳にもいかねえだろ? そんで誰か来るのを待ってたらまさか本人とはな」 「それはそれは。どうもご迷惑をおかけしたようで……」 「なんのなんの。釣りする片手間よ。にしてもたまげなぁ、いい仕事するじゃねえの猫っころ」 「ええ本当に。ありがとうございます猫さん」 「ほれほれこっち来。魚やんぞ」 ちょいちょいと手招きされてもどこ吹く風、私の足元へ歩み寄ってきて顔を何度も擦り付ける。喜ぶべきか謝るべきか。しかし気を悪くした感じはなく、代わりに豪快な笑いが返ってくるのだから、全くこの空のように広い心を持った人である。 「猫もくたびれたおっさんより若い兄ちゃんのが良いってか? まあ別嬪さんなんざ引く手あまただわなぁ」 「ははは、私も随分追いかけさせられたものですよ」 「違いねえ。先生の頭も春が来てらぁな」 その言葉に水面を覗き込むと、風でさざめき揺れる私の髪にいくつもの桜の花びら。どうやらトンネルを通った時に舞い降りたようだ。子供のようで少々恥ずかしく、慌てて振り払うと、澄んだ水面が春を浮かべた。 「へっ、花差すのは女の特権だわな」 「ええ全く」 「どうだい作家先生も、嫁さんに花贈ってみりゃあ」 「……そうですね。小春日和ですし」 振り向いたところに咲く桜の木。春が好きだと詠った彼女は、どこかでこの村を見ているだろうか。随分と元気のいい娘と、出不精の夫を。優しい人に作られた、暖かな居場所を。昔祭りに連れて行った時に渡した簪は梅だったから、今度は桜そのものを渡したら驚きながらも喜んでくれるだろうか。こんなもの付けられないじゃない、なんて言いながら、心底嬉しそうに笑ってくれるだろうか。 「がははっ、上手いこと言うじゃねえの。ほら娘っ子連れ帰ってやんな。俺はまだ釣りすっから。こんなとこで寝てちゃ石の跡がついちまうよ」 「全くですね」 「子供は元気が1番だわな」 「あはは、それお父さんも言ってましたよ」 「げえっ。ほんとかい」 顔を顰めた彼に頭を下げて小春を抱えた。むずがるような顔をしたが、それも一瞬のことですぐに安らかに寝息を立てる。全く強く育ってくれて何よりだ。記憶より重くなった体と共に足を踏み出した。にゃあ、可愛らしい声に笑顔を返す。トンネルを通る途中、落ちてしまった芽吹いた枝をどうにか1つ拾って、青空に映える桃色を湛えた小さな春たちを後にした。 「結局、結構な時間になってしまいましたねぇ」 家に帰って小春を寝かせ、再び縁側へと腰掛ける。まだまだ空は青いが、少々日が傾き始めた。久しぶりにこうも出歩いたせいで頼りない足も腕もじくじく痛む。普段ペンを片手に原稿用紙に向かって頭をうんうん唸らせるだけの男などそんなものだ。桜の枝を渡された彼女は、額縁の中でそんな情けない男を毎日見せられているのだ、頭も下がる。 「ああ、そういえばお礼をしないといけませんね」 ひょこりと家の陰から猫が顔を出した。もう1人の頭の下がる相手だ。中に入ろうと立ち上がりかけた私の膝に、ぴょんと彼女は飛び乗った。 「うわ、おやつはいいんですか?」 「にゃあん」 「あ、すみません。うるさいですか……」 すぐに丸くなって安らかな寝息を立てるのは小春そっくりだ。今日は2人によく振り回された。そういえばおやつにお呼ばれしていたのに食べ損ねた、しかしもう疲れて歩く気にもならない。それにどこにいようとも、春は満喫出来るものだ。 ひらひら舞い降りてきた花びらを見て、風の運ぶ香りを感じて、桃色に染まる村を見て、最後、振り向いて部屋の中を見た。布団の上に眠る小春。本当なら、その小さな頭を撫でて共に寝る存在がいたはずなのに。 「桜の花、喜んでるかい」 それなりに良くやっているよ。春の日と、村の人と、膝の上の暖かな存在がいる。それでも片時も忘れたことなどないけれど。 私も上体を床の上に倒した。散った花びらが侵入してくる縁側なんて、なんとも贅沢なことだ。水辺ですやすや眠っていた悪い子や、先に逝ってしまった彼女には教えてやらない。 ただ、今日春と人とに巡り合わせてくれた彼女にはこの上ない感謝を。 「お昼寝日和ですねぇ」 にゃあ、聞こえたような聞こえなかったような。微睡みのうちに意識が途切れる。どこかから聞こえる優しい人々の声を、美しい木々のざわめきに溶かしながら。
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