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#29
「それじゃあ、りっちゃんの仕事先が決まったことを祝して」
運ばれてきた食前酒を詩織が持ち上げる。
律も同じようにしてグラスを軽く触れ合わせた。
しばらくは店の話や食前酒の感想で間が持ったけれど、時間が経つにつれ沈黙の割合が大きくなっていく。
それもそうだ。さっき彼の同僚のまつげ女子に言った通り、知り合い程度の仲なのだから、話題が尽きないわけがない。
新たな話のきっかけを探していると、テーブル端の花瓶に活けられたガザニアの花が目に留まった。
一重咲きの濃いオレンジ色の花弁に、律は目を細める。
「この花、三上さんの家の庭にも咲いてますよね」
律の指先を追った詩織は、初めてそこに花が飾られていることに気づいたかのように、じっと見つめる。
「ガザニアですよ。品種は違うけど…かわいいですよね」
そう口にしてみたが、曖昧な相槌のみの彼の反応を見れば、話題選びに失敗したことは明白だった。
そもそも、男性がそこまで花に興味を持つはずもない。
少なくとも彼はまったく興味がない部類だろう。
「庭に入ったのか」
「はい。由紀奈さんの許可を頂いたので…」
彼は信じられないというように口を歪める。
由紀奈とまったく同じ反応だ。
「よくあんなところに…両親が越してから、あの庭は誰にも手入されせずに放置されてきたのに」
さすが姉弟。揃いも揃って、ひどい言いぐさである。
「ガーデニングをされていたのは…お母さまでしたっけ?」
「ああ、母だ。今の家でも庭いじりは続けてるよ。とりわけ気に入りの植物は引っ越しの時に一緒に持っていったはずだ。あの家の庭が荒れ地になることを見越して」
「荒れ地というほどじゃ…まだまだきれいに残ってるものもありますし。お母さまが育てていらっしゃったハーブを何種類か頂いて、鉢に植え替えましたよ」
詩織は肩をすくめてみせた。
「母は泣いて喜ぶだろう。あの密林に分け入っていく果敢な人間が現れて…子供は誰一人として庭になんか目もくれないからな。君は母と話が合いそうだ」
顔で笑みを返しつつも、詩織の言葉の真意を探して律は困惑する。
…それはつまり自分が、彼の母親と同じ趣味を持つババくさい女だということだろうか?あるいは暇な人間だと?
いや、考えすぎだ。彼はそんなこと言ってない。…直接的には。
ガーデニングなんて老若関係なく誰もがやってるし、暇な人間が興じる趣味だと決まっているわけでもない。
そもそもそれ以前に、律はガーデニングを趣味としているわけではない。
ただ、今までもそうしてきたように、実家で母がやっている習慣に倣っただけだ。
ハーブを育てて料理に使うことも、部屋に花を飾ることも。
心の中に再び現れた、もやもやした気持ちを追い払おうと、律は食事に集中する。
だけどその努力もむなしく、彼の最後の言葉が頭の中に尾を引いて留まり続けた。
先ほどの、詩織の会社の同僚だといっていた、まつげ女子の姿がちらりと脳裏をかすめる。
彼女は庭いじりなんて絶対にしないだろう。
きれいにネイルされた彼女の爪を思い出す。
彼女だったら、もっと気の利いた会話ができるのだろう。
かわいく小首を傾げた彼女の顔を思い出す。
彼女だったら…
何もかもが自分とは違うまつげ女子を通して、律は詩織と自分の世界が違うことを、また勝手に意識する。
ガザニアの話だって、少しでも何か共有できたらと思ってのことだったのに…ますます彼との相容れなさを実感させられただけだった。
…あの時、帰ることが正解だったのかもしれない。
もやもやした気持ちの中に、小さな後悔が浮かんだ。
まだ知り合って間もないけれど、詩織とは合わないことを、律は薄々感じ始めていた。
彼が不愉快な人間だというわけではなく、単に二人の波長がかみ合わないということだ。
しかし、仲良くはなれなくとも、当たり障りなく付き合っていくことはできるはず。
そうじゃなきゃ、由紀奈に申し訳ない。
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