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#12
慌ただしく由紀奈が出勤していくと、リビングには律と詩織の二人だけが取り残された。
てっきり律は、由紀奈が家を出るのと同じ時間に詩織も出かけていくと思っていたのだが、彼は急ぐ様子もなく未だダイニングテーブルの席についていた。
律が自分の朝食を作り終えてテーブルに運んだ今も、詩織はスマホをいじりながら、二つ目のパンをかじっている。
「三上さんは何時ごろ出勤されるんですか?」
彼は顔を上げると、壁掛け時計を見上げて答える。
「一時間後だ」
一時間後?それを聞いて少し気が重くなる。
彼は食事をほとんど終えているのに、自室に引き上げる様子もない。
ということは、家を出る一時間後まで、彼はこのリビングで過ごす気だろうか?
いろいろ気になる点はあるものの、とりあえず律は食事を始める。
「職場はお近くなんですか?」
「ああ。自宅よりこっちからの方が近いんだ。だから姉貴の様子を見に来た時には泊まって、ここから出勤するようにしてる」
一番近くに住んでる自分が、一人暮らしの姉の安否確認を定期的にするよう親から頼まれているのだと彼は話した。
なるほど。それが、彼がごくたまにこの家に帰ってくる理由らしい。
会話がなくならいように、律は次の質問をする。
「三上さんは、どんなお仕事をされてるんですか?」
「IT関係だよ」
「IT…すごいですね」
「そんなことないよ」
彼は口の端をつり上げる。
その笑みが少し気になった。また律のことを馬鹿にして笑っているのではないかと感じたからだ。
“すごい”という安易な返しをしてしまったことを、心の中で悔やむ。
ああ、もう…昨日から彼の前では後悔しかしてない。
でも、そんな返答しかできないくらい、律はIT業界のことなど何も知らないし、興味もなかった。
就職活動の時だって候補にすら入れなかったくらいだ。
もともと機械には強くない。だから会話を維持するための、次の具体的な質問さえ思いつかない。
どういう仕事ですか?なんて聞いてみたところで、自分の無知のせいで遅かれ早かれ会話は行き詰まるに決まっている。
とにかくこれ以上、馬鹿だと思われたくない。
二人の間が静まり返り、テレビのにぎやかな音声がいたたまれないくらい大きく響く。律はテレビの話題が気になるようなふりをして、さりげなくそちらに顔を向けた。
その間も、他の話題を頭の中で一生懸命探したけれど、浮かばない。
同じ空間にいながら会話を続けようという気はないということか、彼はまたスマホをいじり始める。
それを横目に見て、律は呆れる。
昨日からずっとこんな状態だ。これはもう中毒症状と呼んだ方がいいのではないか?
彼はスマホに顔を向けている時間の方が圧倒的に長い。
昨日初めて会ったばかりの律でさえ、この点だけは確信をもって断言できる。
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