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#6
挨拶を終えると、それ以上交わす言葉も見つからず、律は逃げるようにキッチンに戻った。そこからそっと由紀奈の弟の様子を観察する。
リビングのソファにカバンを放った彼は、腕時計を外している。
まさか家主の由紀奈を介さずに、その家族と対面することになるとは思わなかった。
律はちらりとリビングの壁掛け時計を確認する。
とりあえず、由紀奈が帰ってくるまでここに閉じこもっていればいい。
彼だってわざわざキッチンに来たりはしないだろう。
けれど、ここでやることはもうほとんどない。
料理はすべて完成間近で、ハンバーグを焼きながら、味噌汁に具を入れて、サラダを盛り付ければ終わりである。
でも、ハンバーグを焼くのは、由紀奈が帰ってきてからにしたい。
仕方なく、律は効率を無視した手順で料理を再開する。
手始めに味噌汁に豆腐を入れようと思い、さいの目に切った絹豆腐を味噌汁の鍋に投入する。
そこへ、青年がずかずかとキッチンに入ってきた。
まさかキッチンに彼が侵入してくると思っていなかった律は、仰天して身構える。
「な…なにかっ!?」
「腹減った、俺の分ある?」
彼は無遠慮にも律の背中越しからみそ汁の鍋を覗き込む。
緊張する律とは裏腹に、彼の方はつい5分前に初対面を果たしたとは思えない気安さだ。
上背のある男性が一人隣に立つだけで、途端、キッチンが狭苦しく感じられる。
物理的な狭さというよりは、見知らぬ他人がそばにいるせいで感じる心理的な圧迫感だ。
「あ…ありますから、向こうで待っててください!」
思わず“出て行ってください”と、ほぼ同義語のニュアンスで叫ぶ。
が、律の動揺に気づいているのかいないのか、彼はにっこりとこう言った。
「何か手伝うことは?」
「大丈夫ですっ!」
うろたえて、声が必要以上に大きくなる。
別に律は人見知りではない。ただ、チャラチャラした雰囲気の若い男に少し苦手意識があるだけだ。
ついでに言えば、突き抜けて美形の男も苦手だ。
残念なことに、目の前の相手は見事にその二つの要素を兼ね備えている。
何が面白いのか、彼は律に愉快そうな笑みを向けると、冷蔵庫から缶ビールを一つさらってリビングに戻っていった。
律はそっと胸をなでおろす。
人当りはいいのだろうけれど、彼の美貌はそれだけで律を委縮させる。
そんな律の緊張など知る由もなく、彼はリビングのソファに身を沈めて、缶ビールを片手にスマホをいじっている。
早く帰ってきて下さい、由紀奈さん!
律は時計の針を急かすように、何度も壁掛け時計を見上げる。
もしも今日に限って由紀奈が残業だったら、彼と二人だけの夕食になってしまう。
壁掛け時計と、家主の弟とを交互に視界に収めながら、律はもうほとんどやることも残っていないキッチンに籠城したまま、由紀奈の早期帰宅を祈り続けた。
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