#8

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「本当に知らないんですか?弟さんの勤務先」 ビールのグラスを弄ぶように回す由紀奈に、律はそっと尋ねてみる。 「前に聞いたような気はするけど、忘れたわ。だって私が働くわけじゃないんだし」 悪びれた風もなく言い放つと、由紀奈はグラスに口をつける。 「でもまさか今日、詩織が帰ってくるとは思わなかったわ」 グラスを置いた彼女は、新しい缶ビールのプルトップを引き抜くと、注ぎ口を律に向けた。律は急いでグラスの中のビールを飲み干す。 「まったく…帰るなら連絡の一つもしとけっつーの。そしたら私だってちゃんと場をセッティングしたのに…ほんとにごめんね、律。怖かったでしょ」 由紀奈は謝罪する。弟の粗相を彼女が詫びるのはこれで三度目だ。 怖かったというよりは…思い返して再び顔が熱くなる。 初対面の人間の前で、あんな失態を犯したのは人生で初めてだ。 でもそれは、この家に帰ってくるのは由紀奈だけだと思っていたからで… 過去が変わるわけでもないのに、律は心の中でまたあれこれと言い訳をする。 しかし当初、由紀奈はルームシェアを始めるにあたって“時々帰ってくる弟の存在”について説明してくれていた。 それを、あまり重要ではない情報として聞き流していたのは自分だ。 だから結局、自業自得ということなのだけれど。 あぁ…でも、叶うならやり直したい。 恥ずべき初対面の記憶を振り落とすように、律はビールをあおる。  電話が終わったのか、階段を降りてきた詩織が再び席に着いた。 「ああ、ちょうどいいところにきた。詩織、今度帰ってくるときは絶対にちゃんと事前に連絡してちょうだい。もうここは私だけが住んでるわけじゃないんだから」 繰り返される姉の苦言に、彼はくどそうな表情を向けて了承の返事をしたが、ふいに悪戯っぽく笑って律に目配せする。 「前もって連絡をすれば、またああいう出迎えをしてもらえるのか、りっちゃん?」 初対面の相手の失態をまだからかうつもり? 律は面食らったものの、その言葉を受け流すために、はにかんでみせる。 「とにかく帰るときは前もって一報入れなさい。それが嫌なら帰ってこないで」 姉の一喝に詩織がおどけまじりに頷いたところで、再び彼のスマホが振動する。  残りの食事をかきこむように平らげ、律に向かって“ごちそうさま”と律儀に告げると、彼はスマホを片手にリビングのソファに移動した。 「あんなこと言ってるけど、詩織はほとんどここには帰って来ないから気にしないで」 夕食後、後片付けのためにキッチンに立っていると、隣の由紀奈がそっと律に耳打ちした。 「普段は自分の家に帰ってるんだけど、時々こっちに来るのよ」 先ほどの夕食の席で、非正規というような話をしていたけれど、独り立ちできるだけの経済力はあるらしい。 「一応、どっかに家を借りてるはずよ。あるいは友達だか彼女だかと一緒に住んでるんじゃないかしら。その辺は詳しくは聞いてないわ。もう子供じゃないんだし」  由紀奈は食器を水切りかごに置くと、何かを考えるように手を止める。 「ここには…そうね、半月に一度帰ってくればいいほうよ。二、三カ月音沙汰がないことも珍しくないし」 つまり今日が例外中の例外であって、今後、彼と頻繁に顔を合わせるようなことはないということらしい。 それを聞いて心底安堵した。 ならば今日、自分が犯した醜態も、次に会う時には無かったことになってるだろう。 律はリビングでくつろぐ詩織の姿をそっと窺う。 彼は帰ってきてからずっと、スマホをのぞき込んでばかりだ。 食事中にも頻繁にスマホを手に取っていて…まったく、今時の若者らしい姿である。
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