作用

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作用

カレーとは? 肉、野菜など様々な香辛料の風味をきかせて調理した、辛みの強い南アジア発祥の料理。日本では明治時代にイギリス料理として伝わる。    ガスレンジに火を点ける。鍋に油を多めに入れスパイスを炒める。炒めるというよりは油で煮るように。玉ねぎのみじん切りを炒めたスパイスに投入し飴色になるまで炒める。大蒜と生姜を入れまた炒める。 次にパウダーのスパイスを入れ炒めたら、肉を入れる。肉に焼き色がついたらここに牛乳をたっぷり入れて少し煮込み、生クリームを入れる。最後に塩で味を整えたら完成。  ルーを使うよりも深い味になり、健康にもいい。スパイスを使うことには意味があると思う。しかし、スパイスにはそれぞれ性格がある。お互いが尊重しあう事で初めてカレーになる。  今日のカレーはターメリックを入れ過ぎたらしい。苦味が強く出てしまいどうにも漢方薬を飲んでいる気分になる。スパイス=漢方薬なのだから間違いではないが、二日酔いでもない私の身体は今ウコンを欲していないらしい。  昨年の忘年会シーズンの事だ。会社の飲み会で上司にほとほと飲まされ、翌日には頭痛、倦怠感で動く気にもならなかった。そうなる事を予想していた私は前日にターメリックを効かしたカレーを作っておいたのだ。二日酔いの昼食にはこのカレーが何よりの薬なのだ。ターメリックが私に囁くのだ。  「いつまでも若いつもりで、飲み過ぎるからそうなるんだ。いい加減過去の過ちから学ぶことも覚えて欲しい。これからも飲み会の度にボクのお世話になるつもりかい?」  相変わらず毒のある言い方だ。一見性格も悪いし、協調性もあるとは言えない。でも二日酔いの私を最後は必ず助けてくれる。悪い奴じゃない。ちなみにカレー全体の仕上がりを奇麗にしてくれる。  あとクミンの香りが少し足りなかったか?少し煮込み過ぎたか。 クミン。カレーの代表的な香りだ。 「マッタク。ワタシイナイトハジマラナイヨ。」  その通りである。だけどいい加減片言で話しをするのはやめてほしい。そろそろ付き合いも長いだろうにいつまでもその話し方は変わらないんだな。  カレーを作るといつもスパイスとの対話を楽しんでいる。私だけではない、鍋の中でスパイス達は終わらない対話を続けている。食事が終わっても私の身体の中で彼らは仕事をしてくれている。    今日は昼過ぎから得意先を回り、会社に戻ってから見積書を仕上げなければならない。定時で帰ることを諦めた私の横を上司が平然とタイムカードを押して帰る。  「ご苦労さん。残業は程々にしてなるべく早く帰るんだぞ。じゃあお疲れさん。」  労いの言葉が私の耳を通り抜けて行った。残業の日はどうしても帰宅は九時を過ぎてしまう。そんな時間に帰ってからカレーを作るほどには私のカレー熱は熱いとは言えないだろう。せいぜいレトルトのカレーを温めるのが精いっぱいである。レトルトのカレーには独特の香りがあり、普段スパイスのカレーを食べ慣れている私には物足りない物がある。  しかし、そんな日でも食後のチャイを楽しむことで私の疲れた体を癒すことができる。 見積書を何とか仕上げた私は十時前に帰宅し予定通りレトルトカレーを胃に収めた。先日のカレーより更にクミンの香りの弱いカレーを食べているとなんだか惨めな気持ちになってくる。食器を洗い寝間着姿でソファーに腰を沈めると、一人静かな部屋でこの先の事を考える。今日はスパイス達は喋らない。今の会社でこの先出世をしどれほどの給与を得て、どのような人生が待っているのか見当もつかない。食うには困らずかと言って贅沢も望めない自分を不甲斐なくすら思える。気分が塞ぎ込み、息苦しさを感じてきた私はキッチンに行きフライパンにお湯を沸かし、シナモン、カルダモン、ジンジャーを紅茶の茶葉と一緒に煮る。紅茶は当然スリランカだ。最後に豆乳を入れる。  こんな風に心身共に疲弊しているときには、よく自分でチャイを作る。チャイにはコーヒーや酒にはない癒しがある気がする。  シナモンの香りは尖った神経に優しく話しかけてくる。「今日もお疲れ様です。あまり思いつめないで下さい…今は大変かもしれないけど、その内何かいい事がありますよ。無理せず、自分のペースで行けばいいじゃないですか。」  自分のペース。今の私は自分のペースを崩していると言えるだろう。しかし、果たして昔の私は、自分のペースで生きていたと言えるだろうか。学生の頃も、勉強、部活、受験と迫りくる物を全てこなしている内に過ぎて行った。三流大学出の私は今の会社に就職するのにも苦労した。集団面接の時に「学生時代には何に真剣に取り組んできましたか。」という質問には果たして何と答えたのだったろうか。人が何か一つでも役割というものがあるのならば、私の役割とはどこにあって、それはいつ来るのだろうか。高校生の時に同じサッカー部にいた岡田と昔こんな話をした事を思い出した。あれは確か先輩にしごかれて、片づけをしている時だった。  「この暑いのに、先輩達は容赦ないよな。しかも、自分たちだけ適度に休んで、二言目には「そんな事で一試合戦えるのかぁ。」って、何様のつもりだよ。ちょっと先に生まれただけで嫌になるよな。」  「あの先輩、一年の時、相当先輩にしごかれたらしいよ。その腹いせを今俺たちにしているんだろ。」  「あームカつくな。俺先輩になったら絶対後輩に優しくするは。そうでなくちゃ、この無駄な伝統は終わらねえよ。」  「岡田が先輩になる頃には俺もうやめているかも…」  「そんなこと言うなよ。確かに今は大変だけど、いつか事態は好転するって。なっ、幸本。がんばろうぜ。」  岡田…お前、カルダモンみたいなやつだったんだな。  その後、岡田は一年生でレギュラー入りし、二年生になって後輩たちを守り。三年生にはキャプテンになった。 私は岡田との約束を守り、なんとか引退まで在籍したが、果たしてそれが私のペースだったかは未だに分からない。  外に出ると風の匂いはすでに春になっていた。先週までは二月の寒さを引きずっていたが、今週になり急激に温かくなってきた。冬物のコートを着てきたことを少し後悔していたが、脱ぐほどでもなくそのまま外出した。 休みの日は美味しいカレー屋を探すことが習慣になっている。世の中にはチェーン店や、ファミリーレストランでもカレーが食べられるが、スパイスの効いたカレー専門店には、それ以上に胸を踊らすものがある。今日は神保町にあるカレー屋に行くことにしている。会社からもそれほど遠くなく、以前から存在は知っていたが、今日が初訪問である。木の扉を開くとスパイスの香りが漂っていた。休日とあって席は満席に近くなっていたが、ウェイターが空いている席に案内してくれた。ワンテンポ遅れて水とおしぼりを渡され、同時に何にするか聞かれた。初めての店で、勝手も分からなかったが忙しそうなランチ時を察し、お店の名前を冠したセットを注文し、辛さを聞かれたので普通を注文した。  待つ間に、店の中を見る。アジアテイストの装飾品が必要以上に置かれず。過ごしやすい雰囲気になっていた。しかし、店は込み合っており、人の密度とスパイスの独特の香りもあり、行った事もなのに本場インドを想像してしまった。  料理は思ったよりも、早く来た。ウェイターが早口にカレーの説明をしてくれた。チキンのカレー、豆のカレー、ライス、ナン。空腹もあり、それ以上の期待にスプーンをとった。食事を進めていると、スパイスの香りが何重にもなり私の中をかけ廻った。クミン、レモングラス、コリアンダー、ターメリック、パプリカ、クローブ、カレーリーフ、ベイリーフ、他にも私が知らない、もしくは感じ取れないスパイス達をカルダモンがまとめあげていた。  カルダモンはさわやかな香りで皿にあるすべてのスパイスを調和させていた。「スパイス達はみんな個性が強いし、癖もある。でもみんないい所がもあるのさ。誰だって一人で何かをなすことは難しい。でも助け合い、尊重する事で今いる場所から少しだけ明るいところへ行けるだろ。」  私は大きな衝撃を受けていた。私の役割、最近そればかり考えてきたが、私は大きく間違えていた。私の役割は私自身が明確にするのではなく、私が他者の役割を明確にしたときに、他者が私の役割を明確にしてくれるのだ。そのことを私は昔から知っていたのではないか。だから、会社の上司も、岡田も私に役割を与え、何気ない日々を送って来れたのではないか。  まさに今日カルダモンに気づかされた。カルダモンという他者に、私の役割を明確にされる。それが救いとよべるのではないか。  店を後にすると、日差しがより強くなってきていた。桜が咲けば上野のあたりは花見客でごった返すだろう。その頃にまたこの店に来るつもりだ。そのついでに花見をするのも、今では悪くないと思えてきた。今の私には人ゴミもきっと必要なことなのだろう。他者と関わり合うこの世界では、作用する事にこそ意味を見出す必要がある。たとえ時間がかかっても、その道にはきっと春の日差しが照らすはず。
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