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ショパン作曲の雨だれのプレリュード
雨の日、あのメロディを聴くまで
どうしてわたしは佑のことを忘れていたのだろう。あれだけ同じフレーズを何度も一緒に弾いたのに…。
吉良崎佑は、私の幼馴染だ。正確には幼馴染だった。
「美羽ちゃん、待ってよー」
こうしていつも思い出すのは私よりも10センチくらい背の低い痩せた男の子が、わたしの後を追いかけてくる場面だ。
記憶にある佑の顔はいつも朧げで、だけどいつも必死に私の後を追いかけてきた。
誰が見てもきっと虐待されていたことが分かってしまうくらい、身体じゅうのあちこちに傷をつくって痛々しかった。
声を掛けたのは本当にたまたまだったけれど、西陽が傾く公営団地の公園の砂場で1人遊んでいる佑のことが気になった。
同い年くらいの年頃なのに、異様に痩せていてどうしてこんなところで遊んでいるんだろう?と思った。
雨の降る前の静けさ、雷がゴロゴロとなる公園で思わずわたしは初めて見かける佑に
「うちにおいでよ」と声を掛けてしまった。
佑の母親はもうその頃ほとんど家には帰ってこなかったから、
多分私があの日、たまたま公園で彼を見つけなければ死んでいたかもしれない。
そのぐらい佑は細かった。
雨の日の記憶はいつも佑との思い出だ。
部屋の中にいると静かに地面を伝う雨粒の音だけが、聴こえてきた。
「あら、佑くん、きてたの」
私の育ての親、つまり私のあたらしい母親は肩まで短く切り揃えた髪で料理を作りながらいつも傷だらけの佑を迎えた。
そしてわたしの母は、佑には必要最低限のご飯しか与えなかった。
急に太ると、佑の母親が訝しげに思うから。
それと同時に佑をいつ児童養護施設に連絡するかを見計らっている様子だった。
佑は6歳になっていたし、多少のことは
もう分かっている筈だった。
だけど、やっぱり母親が良いのか
決まった時間になるとまた彼の家へと戻る生活が続いていた。
そんな中でもいつしかわたし達は、
お母さんの手ほどきを受けながらピアノを一緒に奏でるようになった。
雨が降るタイミングに合わせてショパンの「雨だれのプレリュード」を弾くのが私たちの習慣だった。
このシトシトと雨粒が窓を伝う時間だけが
私たちの心の憩いの時間だった。
ポーンと初めの音を私が奏でると、
佑も痩せほそった手でポーンと鍵盤を叩く。
彼は左手、私は右手そうやって最初の頃は
「雨だれのプレリュード」を奏でていた。
佑がいなくなったのは、7歳の時。
どこか違う場所へ引っ越したと聞いた。
雨だれのプレリュード
佑と私の思い出。
どうして今まで思い出さなかったのだろう
歩きながらまた過去の記憶に遡ってしまっていたらしい。
風がブワッと舞い上がる。
そのとき「美羽っ前!!」と
朝紀に注意されるまもなく私は目の前に人がいることに気づかず思い切りぶつかってしまった。
ぼーっと歩いていたからか、
気付いた時には、既にドンッと誰かにぶつかってしまっていた。
「…いってェ」
目の前には、今朝向かいのプラットホームにいたあの男の子がいた。
灰色のパーカーと黒のスキニージーンズ…
茶色がかった猫っ毛と、長い睫毛…
よく見たらきれいな顔してる…
謝るのも忘れて思わず見惚れていると、
「吉良崎先輩じゃないですかぁ!!!」
「え?朝紀知ってるの?!」
「当たり前じゃん、あの吉良崎佑先輩だよ?!ピアノのマジシャンって言われてるんだから!」
吉良崎佑…雨だれのプレリュード…
「佑…?」
まさか、と思ってたけどまさか…
「…やっぱりそうか、お前美羽だろ」
「え?!2人知り合いなの?!」
キョロキョロとする朝紀を尻目に
「佑…もうこの世に生きてないかと思ってた」
思わず呟いてしまった。
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