筑紫歌壇の宴~万葉集巻三328~337まで十首

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筑紫歌壇の宴~万葉集巻三328~337まで十首

筑紫の大宰府は春が終わらんとしていた。梅は散り櫻も散り、藤の花が真っ盛りであった。そこへ奈良の都に使いに行っていた小野老(おののおゆ)が帰って来た。年に一度、様々な報告の為に年に一度、奈良政庁に遣いをやらねばならなかった。奈良まで行くのには17日ほど日数がかかる。往復で一月半ほどの行程だ。さらに、729年のこの年、小野老は奈良で従5位下から従5位上への昇叙を受けて、帰りの足取りも軽く意気軒昂で帰ってきた。 太宰師の大伴旅人は小野老から帰庁の報告を受けると、その夜、小野老のために昇叔のお祝いと慰労とを兼ねて宴を催した。政庁に勤める役人や周囲の国府の長官などが呼ばれた。松明がかがされると、その夜、集まった人々は大いに飲み、語り合った。旅人の催す宴会はいつものことだが和歌の披露会となる。例によって、大伴四綱が小野老に向かっていった。 「それでは、小野殿。奈良の都がどうであったか? その様子を詠って見てはくれぬか?」 小野老はかしこまって、うつむいたまましばし考え込んでいた。ややあって、心を決めるとやおら立ち上ると、朗々と吟詠した。      あおによし 奈良の都は      咲く花の にほふがごとく      今盛りなり (328) 老は『咲く花』に己自身を重ね、『今盛りなり』に己の昇叔の身の上を、それぞれに想いを込めて歌い上げた。それを聞いて、座に連なった人達からやんやの喝采が上がった。それに、小野老の歌はまさに奈良の咲き誇る花一杯の様子が見えるようであった。その歌を聴いていた満座の人は、みな奈良から下ってきていた人達でもあり、懐かしい奈良を想い、にわかに望郷の念が募り、みなふさぎ込んでしまった。大伴四綱もその一人として望郷の念に抗し切れず、皆の気持ちを代弁して小野老の歌に和(こた)えると高らかに詠った。    やすみしし 我が王(おほきみ)の    敷き座(ま)せる 国の中なる    都し思ほゆ (329)    (天皇のおいでになる都が懐かしいなあ) 一座の人の反応はまばらであった。みな小野老の歌のすばらしさに心を奪われていたからだった。大伴四綱は少々プライドが傷つき、さりとと、湿った座であっては酒もうまくない。皆を盛り上げようと、さらに小野老の詠った「盛りなり」に和する形で、そして太宰府の長官大伴旅人に語りかける歌の姿でもう一首、吟詠した。    藤波の 花は盛りに 成りにけり    平城(なら)の都を 思ほすや君 (330)    (藤の花が盛りになりました。長官は奈良の都をどうお思いますか) この歌で君と呼びかけられた旅人は、はたと困ってしまった。無視も出来ない。 「ハハハ、これは困った。しばし待たれよ」 そう答えると旅人の頭の中はフル回転となった。さて、『今盛りなり』、『花は盛りに』と詠われてきた。そうであれば、自分も『盛り』を入れて応えなければならない。『盛り』と言えば、犬か? それでは歌の趣を壊してしまう。俺も老けたものだ。そうだ、自分もとうに盛りを過ぎてしまった。そうだ、それがいい。旅人が『盛りに』という言葉を受けて、四綱に和した。    吾(あ)が盛り また変若(を)ちめやも    殆(ほとほと)に 寧樂の都を    見ずかなりなむ (331)    (自分は若いときに戻れない、もう、奈良の都を見れないだろうよ) 詠い終わると、四綱の恨めしそうな、冷ややかな目にぶつかった。旅人の歌を聞いて宴会は静まりかえった。旅人は、一瞬、空気を読めない自分に腹が立った。旅人にしてみれば、60を過ぎて太宰師として筑紫に赴任してきたのだ。老い先短い。果たして再び奈良の地を踏めるかも分からない。それは当然のことだった。いや、それよりも大伴家は古より天皇に仕えてきた部門の家柄。天皇のためにこの地に身を埋めるのは旅人にしてみれば当たり前と言えば当たり前の覚悟だった。しかし、宴に列席した人は皆、都に帰りたがっている。旅人は静まりかえった人達のその気持ちがいたいほど分かった。そう言えば、俺も昔、飛鳥の宮のおわしました大王のお供をして吉野に行ったことがある。その時の祭祀に、象(きさ)川を歌に詠んで献上した事があったなあ。そんなことを思い出したた旅人が続けて、皆の気持ちをおもんばかって、自分も都が恋しいんことだと詠った。    我が命も 常にあらぬか    昔見し 象(きさ)の小川を    行きて見むため (332)    (命を長らえたらなあ。昔見た象の小川をみたいものだ)    浅茅原 つばらつばらに 物思(も)へば    故りにし郷(さと)し 思ほゆるかも (333)    (つくづく考えれば、昔いた飛鳥が思い出されるなあ) そう詠うと、人々の顔に安堵の色が浮かんだ。それでも、皆、沈んだままだった。それを見て、しかしそうは言っても、都を恋しがっているばかりでは防人達の手前、士気に関わる。そうそう懐かしがってばかりもいられまい。旅人はそう思った。そうして、一座の者を元気づけようと次の歌を詠った。    萱草(わすれぐさ) 我が紐に付く    香具山の 古りにし里を    忘れむがため (334)    (ワスレグサを腰紐に結ぼう。香具山の都を忘れるために) そうは言われて、人々はひどくふさぎ込んだ。皆、望郷の思いで一杯なのだ。これはいかん、しまった。皆を慰めるつもりが逆になってしまった。そう悟った旅人は、皆を励ますためにすぐに帰れるかもと言ってやりたくなった。実際に都では防人の制度を取りやめることが議論されている。小野老からもそういう秘密の報告を受けているし、筑紫と半島の情勢についての詳細は小野老に持たせて都に送ってある。いずれ防人が廃止されたときには、皆、都に帰れるはずだ。旅人はそう思った。    我が行(ゆき)は 久にはあらじ    夢(いめ)の曲(わだ) 瀬とは成らずて    淵にありこそ (335)    (なあに心配するな。自分が太宰府務めも長くはないだろう。    いずれみんな帰れるさ。吉野の『夢の和田』の淵が瀬にはなる前には) 旅人は詠い終わって、『夢の和田』の淵がと意地悪を読み込んだ事が自分ながら可笑しくて、一人、クスクス笑った。しかし、他の者は笑って良いのか、それとも泣いて良いのか、訳も分からずポカンとしていた。それを見た沙弥満誓(さみのまんせい)が、何とも可笑しくて、しかし、何でそんなに都が恋しいんだ? 筑紫だって良いところが一杯有るだろうて。と、そう思うと筑紫を讃える歌を詠って、皆の望郷を慰めた。    しらぬひ 筑紫の綿は    身に付けて 未だは着ねど    暖けく見ゆ (336)    (筑紫の綿つまり筑紫の娘と一緒に寝たことはありませんが、    暖かそうですね) 沙弥が筑紫の綿で織った着物を一度も着たことがないわけはなく、現に、宴席にも着てきていた。実は、仏門にいて女性を知らない沙弥が、筑紫の綿を娘の比喩にして皆をからかって詠んだのだったが、みなは、それと分かってニヤニヤして、再び、打ち解けて楽しい宴会になった。 夜も更けてきて、皆、そろそろ飲み食いにも飽きてきてそわそわし始めた。お開きの時間が近い。それと気を利かせて、旅人が山上憶良に言った。 「もう随分夜も更けた。皆も語り尽くして、そろそろ退屈してきたみたいだ。お前は今日はまだ歌を詠んでいないから、何か詠ってくれ。それで、お開きにしようや」 憶良は旅人の言葉を承ると、やおら立ち上がり、朗々と詠った。    憶良らは 今は罷らむ    子泣くらむ 其(そ)も彼(そ)の母も    吾(あ)を待つらむそ (337)    (私たちはもうおいとましましょう。子供が泣いておりますし、    子供の母親も私たちを待っております) こうして、小野老の昇叔のお祝いと慰労をかねた宴会はお開きとなり、三々五々、皆、家路についた。 了
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