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 先生は仕事を早めに切り上げ、夕方に来てくれた。僕は先生に葵を預けて、姉に荷物を届けることにした。おむつの替え方、ミルクの作り方と飲ませ方、抱き方、ゲップの出し方。念入りに説明して、一時間で帰ると約束して家を出た。  姉は身体こそ起こせないものの、普通に会話ができた。救急車に乗り込む前の苦しそうな姿以来見ていなかったから、ようやく安心した。葵の一日の様子や、先生が来て葵のお世話を手伝ってくれていることを話すと、「ありがとう」と涙目になって呟いた。 「ゆっくり休んで、早く元気になって帰ってきてよ。葵のことは心配しないで。ちゃんと面倒見るから」 「うん。本当によろしくね」  涙で濡れた姉の頬をティッシュでごしごし拭いて、また来ると言って病室を後にした。  帰りにスーパーに立ち寄って急ぎ足で買い物を済ませて家に戻ったのは、ちょうど一時間後だった。 「ただいま」 「おかえり。葵、あれからずっと眠ってるよ」  良かった。家に帰るなり葵がぎゃあぎゃあ泣いていて、オロオロした先生がそのまま立ち尽くしてたらどうしようと、かなり心配していたのだ。 「そういえば先生って苦手な食べ物ある?」 「いや、ない。何でも食べられるよ」 「分かった。夕飯作るから、待ってて。先にお風呂に行く?」 「食べてからでいいよ」  居間に行くと、フランス語の本がローテーブルの上に置かれていた。葵の側で読書をしていたらしい。僕の視線に気づいて、先生は言った。 「いま翻訳中の本なんだ」 「どんな話?」 「地中海の架空の島を舞台とした幻想譚。すごく気に入って、出版社に持ち込んで交渉して、ようやく出版のめどが立ったんだ」 「へえ、僕も読んでみたい」 「読んでみたらいいよ。文章自体はそんなに難しくないから」  微笑んで話している先生は、今朝とはうって変わって「先生」の顔になっていた。僕が一目惚れした、知的でうつくしい顔。大好きな先生が、僕のそばで微笑んでいる。いまだ信じられないようなそのしあわせを、噛みしめる。  先生はできないことが多い。車の運転もできない。都会ならともかく、公共交通機関が著しく乏しいこの街では、運転ができない大人なんてきっと希少生物だ。料理がまったくできないから、食材の買い物すら頼めない。葵の抱き方も、おむつの替え方も、とにかく危なかしくって見ていてハラハラする。  それでも、先生がいてくれるだけで、僕は安心できる。夜中に葵が泣くと必ず起きてきて、おいしい紅茶を淹れてくれる。そして、葵がなかなか寝付けないときは、僕に付き合って好きな本の話やフランスに留学していた時の話を聞かせてくれる。  先生がそばにいる、それは僕にとって、一瞬一瞬が宝物のように大切な時間だった。
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