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ところが、病院を退院して二日目、姉が突然激しい胸の痛みを訴えた。
僕が夏休みで家にいたのが不幸中の幸いだった。姉の尋常ではない様子に、慌てて救急車を呼んだ。新生児がいるという理由で、搬送先の病院だけ確認して家に留まり、迷った挙げ句先生に連絡を取った。ほかに頼れる人がいなかったからだ。
先生はすぐさま僕の家まで駆けつけてくれた。でも赤ん坊の世話なんてしたことのない先生に、葵を長時間預けるわけにもいかない。僕は先生にお願いして、姉の搬送先の病院まで向かってもらった。
姉は急性心筋梗塞と診断された。出産直後で体力が落ちていることもあり、入院が長引くかも知れないと医師から示唆されたのだと言う。
夜になって、病院から戻ってきた先生にそう告げられ、僕は大きな溜息を零した。
まだこの世界に生まれたばかりの、小さな葵への責任が、一気にのしかかってくる。
「先生、」
弱々しくしゃがれた声に、先生が「ん?」と僕を見つめた。
「本当に申し訳ないけれど、少しだけ助けていただけませんか。僕はこの子がいるから、ここから離れられない」
なぜだろう。普段はまったく気にしていないのに、両親がこの世にいないことがこんなに心細く思えるなんて。僕はすっかり弱気になって、先生を縋るように見つめた。
そんな僕を、先生は優しい瞳で見つめ返してくる。
「もちろん、できる限り手伝うよ。葵は僕にとっても大切な姪っ子だから」
先生の穏やかな声に、僕は泣きそうになった。顔を歪め、必死で泣くのを堪えた。
「後で来るから、すこしだけ待ってて」
そう言い残して、先生は家を出ていった。自転車で颯爽と走り出す先生の後ろ姿を、僕はぼんやりと見送った。
葵はまだ眠っている。今のうちに姉の荷物をまとめておこう。パジャマや下着、タオルなど、すぐに必要だと思えるものをとりあえずバッグに詰め込んだ。
それから一時間半後、先生は大きなボストンバッグを抱えてうちにやって来た。驚いて目をばちぱちさせている僕に、先生は涼しげな顔で言った。
「僕もここで葵の面倒を見ようと思って」
「……」
「君一人じゃ、大変だろう。あまり役に立たないかもしれないけれど」
思いがけない台詞に、すっかり固まってしまっている僕を見て、先生は苦笑いした。
「とりあえず、中に入れてくれないかな?」
こうして僕と先生の同居生活が始まった。姉が突然入院して、葵と二人きりになっただけでもパニックなのに、恋してるひとと同じ屋根の下で暮らすことになるなんて。
僕はもう、なにもかもがいっぱいいっぱいだった。
そして、この日から僕は、先生の並外れた天然ぶりを知ることになるのだった。
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