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それからの僕たちは、実に淡々と日々を過ごした。葵のいる居間で、僕は本を読み、先生は仕事をする。葵が声を上げるたびに、僕たちはふと我に返り、葵のそばへ駆けつける。二人でお世話をして、いつまでも泣き止まない葵を、へとへとになりながらあやして。そうしてやっと眠りに落ちた葵を眺めて、ふたりで微笑みあう。そんな繰り返し。
姉が退院する前の晩、向かい合って食事をしながら、先生がぽつりと呟いた。
「きっと明日から、淋しくなるだろうな」
僕は箸を止めて、先生の顔を見つめる。先生は、優しい顔で微笑んでいた。
「葵がいて、諒くんがいて。この生活にすっかり馴染んでしまったから、家に帰ったら、ひとりがつらそうだ」
「ここで暮らせばいい」
そんな事できないと分かっていても、そう言わずにはいられなかった。
「本当に、ずっとここにいたいくらい、心地良かったんだ。諒くんのご飯は本当においしくて、毎日ここに帰ってくるのが楽しみだった」
「先生、」
僕は泣きそうになるのを、ぐっと堪える。そうだ、明日の晩はもう、先生は「ただいま」と言ってこの家に帰ってこないのだ。
僕のしんみりした顔を見て、先生が笑う。
「あ、でも週末にまた来るから。新が帰ってきて、みんなでお祝いするんだろ」
「うん。新さんが料理を振る舞ってくれるって連絡があったよ」
「あいつは僕と違って、料理上手だから。東南アジアの料理が得意なんだ。グリーンカレーやパッタイなんか絶品だったよ」
「うわあ、それは楽しみ」
新さんは先生と兄弟なのが信じられないくらい、全然違うタイプの人柄で、とにかく底抜けに明るくて賑やかな人だ。僕も会えるのが待ち遠しかった。
「先生、」
僕はあらためて、先生に言った。
「学食ばっかじゃ飽きるよ。うちにご飯食べに来て。一週間に一回でも、二回でも、日曜日だけでもいいからさ。もちろん毎日来たっていいよ」
「うん。……ありがとう」
「葵の顔、いつでも見に来てよ。きっとすごい勢いで大きくなってくよ」
そう言ったらまた悲しくなって、しゅんとしている僕の頭に、先生の手が伸びてくる。小さな子供を宥めるような顔つきで、よしよしと頭を撫でられる。僕はおとなしく、先生のあたたかな手のひらの感触を味わっていた。
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