19人が本棚に入れています
本棚に追加
/43ページ
プロローグ
少年が一人、紅葉した木々の下、けもの道をたどっています。陰暦八月の末、平地では秋半ばだというのに、因幡国の山間にはもう冬が近づいていました。彼は祖母に毛皮の敷物でも作ってやろうかと思い立ち、真新しい野うさぎの足跡を追っていたところです。
櫨の木の根をよけて地に足を下ろしたとき、ふいにうなじの毛が引っ張られた気がしました。誰かに見られているようです。
部落の男たちは山を下りて稼ぎに出ていました。山に分け入って狩りをするほど成長した男子は外におりません。
いつの間にか野うさぎではなく、彼自身が獲物として追われていたのです。
少年は冷静でした。脚に力を入れ過ぎてひざが硬くならないように気を配りながら、6尺(1・8米)もある長身を屈めて左手の笹藪へと沈んでいきます。体のあちこちに赤く線をひく切り傷をこしらえつつも、木々のまばらなところへと音を立てずに移動しました。
樹上から彼をねらうのは、人か野獣か、はたまた妖怪変化でしょうか。いずれにせよ逃げたり隠れたりするつもりはありません。
頭上に青空が見える場所まで来ると、少年は木の上に向かって声を張り上げました。
「降りてこい。こそこそと隠れていないで、姿をみせろ」
返事を待つ間、少年は両腕を心持ち広げ、油断なく腰を落とします。左右どちらの手も、腰に差した山刀の柄にすばやくとどく構えでした。
「ああ、良かった。まさかこんなに早く、お主に会えるとは」
笛の音かとまがうほど美しい女性の声とともに、目の前に降ってきたのは牛よりも大きな鬼蜘蛛でした。化け蜘蛛は少年に向かって左右の前脚を掲げると、かちかちと2回、牙を鳴らします。
「久しいな。ところで40年も経つというのに、お主はまったく変わらぬな。驚いたぞ」
「お前は……、妖怪の類いではないな。鬼神か」
鬼蜘蛛は返事をせず、ただ首を傾げました。頭部にある珠のような目玉は、8つのうち3つが潰れています。よく見れば黒く艶やかな繊毛に覆われた体には、無数の古い刀傷や矢傷がありました。
「誰かと間違えているのではないか。俺はまだ15だぞ」
「仁王丸かと思うたが、違うのか。だが私を見て動じぬお主も、異人であろう」
異人というのは、何も無いところ――空――から、けものや鳥、虫、鬼などの鬼神を喚び出して使役する異能者のことです。
少年はむっとして蜘蛛の鬼神を睨みつけましたが、相手は意に介さない様子で返事を待っていました。どうやら彼をからかっているのではないようです。
「俺は……まだ、異人ではない」
因幡国の山間にある部落には、上古からの血を受け継ぐ一族が住んでおりました。彼らはかつて山陰道に勢力を広げていたのですが、倭に敗れてしまったのです。物成りのいい平地を追われたのち、一族は衰退の一途をたどりました。それでも都が平安京に遷り200年が経つ今になっても、一世代に一人か二人、異人が生まれています。
「俺は違う、だが父は異人だから鬼神には馴染みがある。仁王丸は俺の祖父だ。じいちゃんは鬼を喚び出す異人だった、と聞いている」
「なんと、仁王丸の孫と申すか」
鬼蜘蛛は少年に向けて頭にいちばん近い脚、触肢を伸ばしてきました。先端が小刻みに震えています。黒い5つの目玉がつやつやと、濡れた碁石のように光っておりました。
「私は鬼蜘蛛。連れて行ってくれ、仁王丸のところへ。助けが要るのじゃ」
「祖父のところへ連れて行けと? どこの誰が喚んだかも分からぬ鬼神をか」
「仁王丸の孫よ、たのみいる。このとおりだ」
鬼蜘蛛が地面に貼りつかんばかりに頭を下げると、少年は構えを解いて、ひざを伸ばしました。相手に襲い掛かってくる気配がないのを確かめ、くるりと背を向けます。
「待ってくれ、仁王丸の孫よ。遠い東国、下総国から来たのじゃ。せめて話を聞いてほしい」
あわてて声をかける鬼蜘蛛を背後に残し、少年は歩き始めました。
「黙ってついて来い。家まで案内する」
「今、なんと申された?」
「ついて来いと言ったのだ。……途中、姿を隠すなよ」
鬼蜘蛛は、「ありがたい」と頭を下げました。
「お主はやはり、仁王丸の孫であるな。よく似ておる」
「俺の名はトオルだ、ト・オ・ル。いちいち『仁王丸の孫』と呼ぶな」
すまん、とわびる鬼蜘蛛を横目で見て、彼は笑い声を立てました。
「いいさ。悪い気はしないからな」
それきりトオルは口を紡ぎ、野のけものと見まがうほどの身のこなしで森を抜けていきました。張り出した枝をかいくぐる身体のしなやかさ、木の根や草の根株を踏まぬ軽やかな足さばきは、まるで山犬です。
背後の鬼神に油断なく気を配りながらも、トオルはなぜか心が浮き立つのを感じておりました。切れ長の目元が緩み、息の合間に「ははっ」と笑いがこぼれます。
鬼蜘蛛は京よりもさらに遠い東国から、祖父に助けを求めに来たと告げました。鬼神の力を持ってしてもどうにもならないとは、よほどの大事が起きているに違いありません。身体がぶるっと、おののきました。
一方、身の内では胸の奥から噴き出した熱い風が吹き荒れていて、居ても立っても居られない心持ちです。
トオルは好奇心に背を押され、けもの道を風となって駆けていきました。
最初のコメントを投稿しよう!