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下毛野金時がひらりと馬にまたがると、山犬はそばに寄り、長い鼻を向けました。先ほどの香りが鼻腔に広がります。山犬は左右に尻尾を振りました。
「そう言えばお主、侍従 がお気に入りであったな」
山犬がひと声、返事をしました。
「因幡真神よ、明日よりは旅路の空の下、薫物など滅多に出来ないだろう。よく嗅いでおくがよい。今宵は誰しもが、名残を惜しむ夜であろうよ」
トオルが気を失っている半月の間に何があったのかは分かりません。鬼神・真神と鬼蜘蛛がどのように東国へ下り、誰に会い、誰と戦ったのか、未だ知る由もありません。それでも金時の言葉や態度からして、山犬が月姫とその周囲の人々にそれなりの敬意を払われていることが分かります。
〈宇弥太のことでもめても、お互いに何事も無かったかのごとく振る舞っている。何があったかは知らないが、真神が人々の信用を得ているのはたしかだ〉
ただ強いからというだけではないでしょう。鬼蜘蛛の主人、胡蝶の口添えだけでもなさそうです。トオルの住んでいた因幡国の隠れ里においてさえ、異人は敬われつつも畏れられ、疎まれておりました。異人であったがために親に捨てられた子まで、かつていたと聞いています。
「鬼蜘蛛よ、飯綱使いはまだ襲い来ると思うか」
「いいえ。鬼綱は尻尾を巻いて逃げ出しました。今宵はもう、来ないでしょう」
「鬼蜘蛛といい、因幡真神といい、鬼神の凄まじい力には驚くばかりだ。飯綱使いなどとは格が違う。なにより人の情けや物のあはれを解すること、吾らと違わぬ」
下毛野金時ほどの武人が認めている。その一事だけで、トオルは鬼神・真神を見直すべきなのかもしれません。
〈鬼神を妖怪変化と決めつけてしまわない、金時殿はひとかどの人物だ〉
異人の部落も近年では人が減り、トオルが出会う里の者はすべて顔なじみです。少年は見も知らぬ者同士が出会い、短い間にお互いをわかり合うことが出来ると知り、驚きました。
〈俺は誰かに認めてもらえるだろうか。他人を信じることができるだろうか〉
トオルの問いに答えるかのように、真神が2度、短く吠えました。
「金時どの、そしてトオルと真神よ。宇弥太の始末は私にまかせて、どうか邸へ。あまり遅くまで姫さまを連れ出してはなりませんぞ」
鬼蜘蛛の申し出どおり、宇弥太を置いて一人と一匹は駆け出します。トオルは鬼蜘蛛がどう始末をするつもりか気になりましたが、山犬は振り返りもしません。
山犬が鬼蜘蛛を信頼しているのか、それとも宇弥太にはもう興味がないのか、トオルにはどうにも分かりませんでした。
※ 侍従:六種の薫物の一つ。お香。
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