第2章 下総国・すみだ川

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 山犬と下毛野金時が戸口で待っておりますと、目を赤く泣き腫らした月姫が、頭巾(ずきん)をかぶった婦人に手を引かれて邸から出てまいりました。  満月の光に頭巾の下が照らされます。色白の肌にはしわが目立つものの、二重の目に細い眉、高く通った鼻すじと、若いころはさぞ美しかったのではと思われる上臈で(じょうろう )した。 〈若いころはなでしこ婆ちゃんよりも、美しかったのではないか〉  トオルの祖母、なでしこも部落の年寄りどもが色めきたって「美しかった」と評するほどの器量良しでした。貴族の姫であった……などと、まことしやかに噂されたほどです。 「下毛野どの、真神よ。今宵は二の姫様をお連れいただき、まことにありがとうございました」  年齢のせいか、ややしゃがれているものの、艶を帯びた声が耳をくすぐります。 「朝は(あした )、まことの旅立ち。姫さまも早く床についてくださいまし」 「わかっておる。乳母(うば)や、約束を忘れずにいておくれ。息災(そくさい)で……暮らして……」  月姫はおそらく、別れを口にしようとしたのでしょう。何度もつかえて、しまいには涙で言葉が流れてしまいました。  山犬は武人と並んで立ち、身動きひとつせずに月姫と乳母の別れのあいさつが終わるのを待っています。トオルは山犬の見つめる姫の横顔を、驚きとともに眺めておりました。 〈旅立ちの前夜に乳母を見舞うとは。貴人だが、情け深いお方のようだ〉  その涙が清いものだからでしょう。うるんだ瞳には、満月が映っています。 〈姫の名のとおり、月が()に宿ったかのようだ。野人の俺でも、あはれと思うぞ〉  月姫がここへ来たのは、彼女がかなりの「あまのじゃく」で、だめと言われたことをしたかっただけなのかもしれません。それでも因幡真神の背に乗って、月夜に忍び出るだけのいわれはあったのです。  胡蝶は乾いた咳を袂で(たもと )払うと、月姫を山犬のそばに誘いました。 「今宵はこのようなところまで、よく来てくださいました。下毛野どのと因幡真神、そして私のふるさとの者が、姫様を京へ(みやこ )お送りいたします」  下毛野金時が姫の手を取り、身を伏せた山犬の背に乗せます。 「姫様どうか、ご無事で」  月姫は山犬の首にしがみつくと顔を伏せたまま、「胡蝶も達者で、京で待っているから」とひと息に言いました。胡蝶は頭を下げたまま、返事をしません。 〈胡蝶は祖父の仁王丸よりも2つか3つ歳が上だったはず。とても京へは上れぬ〉  この場にいる誰もが、そのことは承知しているでしょう。沈黙は、虫がひと鳴きするほどのあいだ続きました。 〈月姫も、おそらく。だからこそ公家の姫なのに夜歩きして、ここにいるのだ〉  山犬は音も立てずに体の向きを変え、歩き始めました。まるで人の情けやあいさつになど関心がないという態度ですが、実は月姫のことを思いやって、すみやかにこの場を去ろうとしているのかもしれません。  この一刻ほど山犬の内から見聞きをし、同じ痛みを分かちあっていたためか、トオルの頭にそんな奇妙な考えが浮かんでまいりました。  山犬がしずしずと歩みを進めると、胡蝶が袂でそっと目頭を押さえます。金時は一礼し、馬をひいて山犬の後を追いました。  トオルは見送る胡蝶の姿に自分の祖母を重ねます。明日からの旅で目指す京よりも遠い因幡国の山間で、なでしこも同じ月を見上げているかもしれません。  邸まわりの木立を抜けると、山犬は風をきって走り始めました。青々とした満月の光の下、山犬を追って土を蹴る蹄の音が、姫のすすり泣く声をかき消します。揺れる銀色の波の中を、月姫を乗せた因幡真神は南へと走りました。 (第2章 下総国・すみだ川 完)
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