第3章 武蔵国・芝

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第3章 武蔵国・芝

 一夜明けて目がさめると、トオルは喧噪のただ中に寝そべっておりました。どうやら山犬はとっくに起きていたようで、肉体の寝起きと彼の意識は一緒ではないようです。 〈ここがどこだか、どうして着いたのか、月姫はどうしたかなどを覚えておらぬ〉  見れば水干(すいかん)を着た30人ほどの男衆(おとこし)が邸の庭を右へ左へと荷を運び、忙しげに働いています。自分と同じほども大きいつづらを抱えた、10歳になるかならないかの男の子までおりました。 烏帽子(えぼし)を被って直垂(ひたたれ)を着た奉公人が一段高いところに立ち、指図をしています。  この庭もまた、ぐるり周囲を風防ぎの木立に取り囲まれていました。有力な武家の屋敷か、あるいは駅の長者の住まいかもしれません。 〈昨夜おとずれた、胡蝶の住む邸よりも構えが大きいな。それに潮の香りが強い〉  ふと気がつけば、山犬は庭の真ん中に陣どり、腹ばいのまま人々の立ち働くさまを見て時おり欠伸(あくび)しています。男衆は荷を運び出して馬の背に乗せたり荷車に積んだりと忙しいのですが、山犬を避けて庭のへりを歩くので、さらに余計な手間が掛かっているようでした。 〈わきに退こうともせぬから、真神は手伝うつもりなど毛頭ないのだろうな。ところで下毛野金時殿……と、姫は居られるのか〉  トオルの考えは伝わっているはずなのに、山犬はその場から動こうともしません。交差させた前脚の上にあごを乗せ、人の往来やとんびの空に輪を描く様子を見ておりました。 〈国司が帰京するというのは、大変なことなのだな〉  山犬の耳目をとおして知ったのは、昨日すみだ川の渡しに時間がかかり、夜までに荷づくりが終わらなかったということです。トオルは山のような荷の量と、共に旅をする人数の多さを知り、驚きました。  国司の家族や奉公人の人数を除いても、荷駄の馬が十数頭、馬をひく者が同じ人数、荷を背負う奴婢(ぬひ)が30名ほどおりました。因幡ではとても珍しい、荷を積むための車が5台もあり3人ずつが積み込みにあたっています。  荷積みが終わったところで、下毛野金時が武家の一群50余名を、どこからともなく引き連れてまいりました。ほとんどが徒立ちで、烏帽子・直垂姿に太刀を佩き、足ははだしです。半数ほどの者が弓を携えて、箙を( えびら  )腰に提げていました。  この者たちはどうやら武蔵国(むさしのくに)相模国(さがみのくに)の境まで同行し、国守一家と荷駄の警固をするために雇われているようです。下毛野金時は武者どもをまとめる、頭領の役目を任されているのでした。  山犬が中央に居座る庭で、朝の2刻(4時間)足らずの間に100人もの人が動きまわり、集まるさまを見て、トオルは気が高ぶってくるのを覚えました。 〈一時にこれだけの人数を、見たことがないぞ〉  因幡国の彼の里では、長が「山を下りて平たい土地で暮らす」ことを進めているため、ここ10年で人が減っているのです。今、山間の部落には老人たちと、異民族と暮らすことをかたくなに拒む一部の者どもだけで、50名ばかりしか残っていません。  トオルは最後まで山に残るつもりの祖父母と一緒に暮らしておりましたが、大勢の人々のいる所で「なにか」をしたいという心持を常に抱いていたのです。 〈真神ではないが、見ているだけで心浮き立つ景色というものがあるのだな〉  荷を積み、あるいは荷を背負い終えると、荷を運ぶ者たちは武士の一軍に守られて出発しました。烏帽子・直垂姿の奉公人頭と思しき男が、先導をします。半分ほどが敷地を出た頃になってやっと、国守の一家が数人の武家とともに東からやって来ました。  彼らはなんと、牛の引く屋根付きの車に乗っています。貴人は京で( みやこ )牛車(ぎっしゃ)を使うと聞いたことがありますが、東海道の東方でもそうしているとは知りませんでした。 〈荷は先に渡したと、鬼蜘蛛が言っていたな。一家は川の東岸にいたのか〉  先頭の車から降りてきたのは烏帽子に狩衣姿の男性ふたり、おそらく国守と彼の息子でしょう。次の車には単衣(ひとえ)をまとった、およそ旅に向かない装束の婦人が2名いました。これは国守の妻と娘かと思われます。 〈月姫の姿が見えぬようだ〉  下毛野金時はどうやら、国守の一行を警固しながら荷を運ぶ者どもの殿を( しんがり )務めるようで、まだ出立しておりません。金時と真神がここにいるということは、月姫も昨夜、無事に戻って車に乗っているはずでした。 〈月姫さまは夜ふかしのせいで寝すごして、置いてこられたのではないか〉  山犬が鼻を天に向け、匂いを嗅ぎ始めました。トオルも狼の鋭敏な鼻で風を嗅ぎましたが、貴人たちは皆、薫物(たきもの)をしているらしく月姫の香りを嗅ぎ分けることはできません。  そのうち金時が馬にまたがり出立してしまいました。すぐ後に車2台が続きます。しまいに3名の武士と邸の者と思われる男子数名がついていくと、邸の敷地には婦人と数名の家人しか残っていません。  山犬はそれでも芝の上に寝そべって、天高くつづく秋空を眺めておりました。
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