第3章 武蔵国・芝

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 山犬が立ち上がったのは、国守一家が去って四半時(しはんとき)(30分)ほど経った後のことでした。 「因幡真神さま、お食事を持ってまいりました」  よい匂いがあたりに漂いました。邸の婦人が羽をむしって(あぶ)り、藻塩(もしお)をふりかけた(きじ)の肉を土器(かわらけ)にのせて持ってきたのです。トオルが忘れかけていた空腹を思い出すと、同時に山犬が「ぐう」と腹を鳴らしました。 〈真神は……! 飯を食うのか〉  因幡の山間にある彼の故郷、異人の里では、鬼神はものを食わずとも平気だと伝えられておりました。鬼神はそれを生み出した主人から、常に力を分け与えられているためです。  異人部落ではさらに、まともな鬼神は食事をしない、とされていました。上古にいたという、人の血を吸う鬼神のせいです。邪な(よこしま)手立てで得た力が主人に流れ込むうち、その異人は人ではなくなってしまった、と言い伝えられています。 〈人外の者となった異人と同族同士で争っている間に(やまと)の兵に攻められ、一族は滅び、生き残りは山へ逃げた……、そう聞いている。不吉なことだが、俺には真神を止める手立てもない〉  山犬は苦悩するトオルを無視して、手でひと口ずつに裂かれた雉肉の炙ったのを口に入れました。噛むごとに口の中にあふれ出る肉汁と、ひかえめな塩の味とが相まって、この上なく美味でした。飲み込めば胃の腑へと下りた肉が力になり、血肉にもなり、身体に欠けていたものを補ってくれます。 「御酒もめしませ」  口が広く底が浅い木の椀に白くにごった酒が入っておりました。山間の貧しい部落で育ったため、トオルは酒というものを見るのは初めてです。()えかけた飯のような匂いが、甘く鼻を刺激しました。 〈これを飲むのか。じいちゃんや親父は滋養に良いと言っていたが……〉  山犬は舌でなめるようにして、白酒を器用に飲みます。トオルはさらなる力が身体の隅々に行き渡るのを感じました。匂いはともかく、わるくない味です。  トオルはふと、気づきました。真神は山犬の中にいて食事もできない彼のために、肉を食って酒を飲み、鋭気を養ってくれているのかもしれません。情けないことに、トオルは主人として鬼神に力を与えることもできないどころか、かえって力を受けとっているのです。 〈真神がなにも食わないでいたら、主人の俺が消えてしまうかもしれない。そうしたら鬼神も消える。……元も子もない、ということか〉  昨夜の飯綱使い宇弥太との闘いぶりや、食い殺さずにいたことはありがたいと感じていますが、肉体は奪われたままです。また宿の者にぜいたく極まりない(えさ)――まるで神への供物のような――の用意をさせるなど、ほんとうに信じてよいのか疑わしいところが鬼神・因幡真神にはありました。 〈俺に気をつかって宇弥太を噛みちぎるのを避け、生の肉を食わぬのだろうか。そこまで手間をかけて、なぜ俺を取り込めたままにしておくのだ〉  肉体が解放されるまでは、鬼神を手放しで信じたり、気を許したりしてはならないのでしょう。山犬と同じ舌で美味な炙り肉を味わいながらも、トオルは考えをあらたにするのでした。
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