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山犬が立ち上がったのは、国守一家が去って四半時(30分)ほど経った後のことでした。
「因幡真神さま、お食事を持ってまいりました」
よい匂いがあたりに漂いました。邸の婦人が羽をむしって炙り、藻塩をふりかけた雉の肉を土器にのせて持ってきたのです。トオルが忘れかけていた空腹を思い出すと、同時に山犬が「ぐう」と腹を鳴らしました。
〈真神は……! 飯を食うのか〉
因幡の山間にある彼の故郷、異人の里では、鬼神はものを食わずとも平気だと伝えられておりました。鬼神はそれを生み出した主人から、常に力を分け与えられているためです。
異人部落ではさらに、まともな鬼神は食事をしない、とされていました。上古にいたという、人の血を吸う鬼神のせいです。邪な手立てで得た力が主人に流れ込むうち、その異人は人ではなくなってしまった、と言い伝えられています。
〈人外の者となった異人と同族同士で争っている間に倭の兵に攻められ、一族は滅び、生き残りは山へ逃げた……、そう聞いている。不吉なことだが、俺には真神を止める手立てもない〉
山犬は苦悩するトオルを無視して、手でひと口ずつに裂かれた雉肉の炙ったのを口に入れました。噛むごとに口の中にあふれ出る肉汁と、ひかえめな塩の味とが相まって、この上なく美味でした。飲み込めば胃の腑へと下りた肉が力になり、血肉にもなり、身体に欠けていたものを補ってくれます。
「御酒もめしませ」
口が広く底が浅い木の椀に白くにごった酒が入っておりました。山間の貧しい部落で育ったため、トオルは酒というものを見るのは初めてです。饐えかけた飯のような匂いが、甘く鼻を刺激しました。
〈これを飲むのか。じいちゃんや親父は滋養に良いと言っていたが……〉
山犬は舌でなめるようにして、白酒を器用に飲みます。トオルはさらなる力が身体の隅々に行き渡るのを感じました。匂いはともかく、わるくない味です。
トオルはふと、気づきました。真神は山犬の中にいて食事もできない彼のために、肉を食って酒を飲み、鋭気を養ってくれているのかもしれません。情けないことに、トオルは主人として鬼神に力を与えることもできないどころか、かえって力を受けとっているのです。
〈真神がなにも食わないでいたら、主人の俺が消えてしまうかもしれない。そうしたら鬼神も消える。……元も子もない、ということか〉
昨夜の飯綱使い宇弥太との闘いぶりや、食い殺さずにいたことはありがたいと感じていますが、肉体は奪われたままです。また宿の者にぜいたく極まりない餌――まるで神への供物のような――の用意をさせるなど、ほんとうに信じてよいのか疑わしいところが鬼神・因幡真神にはありました。
〈俺に気をつかって宇弥太を噛みちぎるのを避け、生の肉を食わぬのだろうか。そこまで手間をかけて、なぜ俺を取り込めたままにしておくのだ〉
肉体が解放されるまでは、鬼神を手放しで信じたり、気を許したりしてはならないのでしょう。山犬と同じ舌で美味な炙り肉を味わいながらも、トオルは考えをあらたにするのでした。
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