第3章 武蔵国・芝

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 山犬は食事を終えると、後脚を膝で折って尻を地べたにつけてしゃがみ込みました。満足したのか、尻尾が左右に大きく振られています。  先ほどの婦人がやってまいりました。 「真神さまのお口に合いましたでしょうか」  問いかけられても、山犬はてんで聞いてない風で、鼻面を天に向けたまま尻尾を振っています。婦人はそれで満足したのか、山犬にいちど手を合わせてから土器を下げていきました。  人々は山犬に対して、「(あが)めている」と言ってよいほど、うやうやしい態度をとっています。 〈鬼神がどうして、これほど丁重に扱われる? まるで神さまのようではないか〉  昨夜、宇弥太が「おいぬ様」と呼んでいたのを思い出しました。武蔵国あたりでは山犬を神として(まつ)る習慣でもあるのでしょうか。ここは故郷を遠く離れた土地、トオルにとって分からぬことばかりです。  車輪の軸がきしむ、耳ざわりのわるい音が風にのって聞こえてきました。山犬はにわかに駆けだして、邸の門から外へ出ます。足を止めることなく、牛に牽かれてやってくる一台の車に向かって走りました。  山犬はひと声吠えると、うれしげに跳ねながら牛車の周囲を回ります。車を牽く牛は慣れているのか、それとも鈍いのか、鼻の頭から尾の先まで六尺を超える山犬を見ても、怯える気配もなく歩み続けていました。  トオルの見たところ、この車は先に行った2台と比べれば、作りも塗りも粗末でした。ただ前に進むだけで激しく揺れて、今にもばらばらになってしまいそうです。すすきの穂が一房、屋形にささってさえいなければ、月姫が乗っているとは考えもつかなかったでしょう。 〈いくら姫が悪いといっても、誰かに狙われているという女の子を一人にするのは危ういぞ。『貴人に情はない』と言うが、あまりにもひどい扱いだ〉  警固の武士が3人ほどわきに侍っていますが、ほかには牛を引く男しかいません。これでは武士の一群や飯綱使いなどに襲われれば、ひとたまりも無いでしょう。 〈下毛野金時殿も何を考えている。雇われの身だから仕方ないとはいえ、人数を分けるとか、他にしようがあるだろうに〉  山犬がまた、ひと声吠えると牛車の中から声が上がりました。 「因幡真神よ、昨夜はありがとう。今日もよろしくたのみます」  まだ大人の声になっていない月姫の、ねぎらいの言葉が胸にしみました。トオルが山犬の中で目覚めたのは昨夜ですが、国守一行は上総国の国府からここへ至るまで、もう半月以上も旅をしてきていることが思い出されます。 〈理由は分からぬが、金時殿は武家を取り仕切るのにいそがしく、真神だけで月姫さまを守ってきたということか。公家とは華やかで良いくらしをしているものとばかり思っていたが、つらいこともあるのだな。真神のしていることは、きっと正しいことなのだ〉  トオルが因幡国で鬼蜘蛛から話を聞いて抱いた思いもまた、間違いではなかったのでしょう。 〈姫さまには助けが要る。もし人に戻ることが出来るのならば、俺も月姫さまを守る〉  山犬が「うぉん」と声を出すと、牛車の中から返事がありました。 「そなたは優しいな。頼みにしておりますよ」  山犬は機嫌よさげに尻尾を左右にふりました。牛車は左手に波の音を聞きながら、西へと進みます。
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