第3章 武蔵国・芝

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 先をいく一行を追いかけて、月姫の乗った車はがたぴしと音を立てながら牛に引かれていきます。左手に見える砂浜は、因幡国で見た鮮やかな白い砂ではなく、泥のように黒くて、打ち寄せる波の色を暗く濁らせておりました。  道が砂浜を離れると、今度は馬に乗った武者の頭まで届くほど育った(あし)(かや)が道の両脇にびっしりと生い茂っています。見通しが悪くなったせいでしょうか、月姫は牛車の窓を閉めてしまいました。 「武蔵には風情というものがないわ」  昨夜の満月に照らされたすすきの原と見比べて、トオルも姫のつぶやきには納得しました。因幡の山間とは違って日当たりは良いものの、東国の野を覆う色は茶と黒ばかりで、風景の面白みに欠けているようです。  国守の一行が赤土の坂を登り始めた頃に、月姫の乗る車は先を行く車に追いつきました。邸を出て半刻も経たないうちのことです。目の前の坂道は山育ちのトオルに言わせればとても緩やかなものでしたが、荷物を負った人や馬には急な勾配に感じられるようでした。力の弱い馬の後ろで道が詰まってしまい、行列の最後尾は坂の手前で立ち往生していたのです。  山犬はしばらく月姫の牛車のわきに座っておりました。そのうちなんの気まぐれか先頭へ向けて坂を登り始めます。途中、武士の一団に囲まれてなにやら文句を言われている下毛野金時の姿が見えました。金時は身のたけ六尺近くあります。遠くから見ても頭一つ分ほど抜きんでているので、周りで身ぶり手ぶりを交えて訴えごとをしている者たちが、まるで子供のように見えるのでした。山犬は尻尾を振りながら近づきましたが、金時を除く武者どもがにわかに眼色を無くしたためか手前でぷいと向きを変え、ふたたび先頭へ向け歩み始めました。  疲れしらずの山犬は、馬の小走り程度の速さで軽やかに土を蹴って進み、すぐに長い行列の先頭へとたどり着きました。荷物の列を差配する、烏帽子・直垂姿の男が荷馬の間を忙しそうに立ち働いております。山犬は興味がないのか近寄りもせずに向きを変え、来たばかりの道を戻り始めました。  月姫の乗る車は、ほんの3町(300米強)ばかり進んでいました。中からは犬の耳でなければ聞き取れないほどの、寝息が聞こえてきます。山犬はついにやることを失い、草原や藪に分け入って、虫や鳥をおどかして遊び始めてしまいました。 〈真神が退屈するのも仕方ない。この歩みでは京に着くころ、俺はきっと白髪になっているぞ〉  ゆるゆると進む一行が「芝」という土地にたどり着いたのは、陽が西の遠い山々の上に落ちかかった頃のことでした。  旅の一行が宿として用いる、ゆかし気な寺の境内に入ると、下毛野金時は声を張り上げて雇い入れた武士を集めました。 「国守の菅原様はここで2夜を過ごされる。皆は明後日の日が昇るころ、この境内に戻ってこい。今日の働きの分はここで渡す。だが明後日に来れば、ひとりにつき半量の米を追加するぞ」  金時は並居る武者の中でも、頭ひとつ分だけ抜きんでておりました。二十歳(はたち)の武人は「うるわし」と名乗る下総の武家一門、およそ10名を寺の警護として残し、他の者どもをそれぞれの在所へと帰します。  近郷の武者たちが境内から去り始めると、金時は山犬の方へと振り返りました。 「案ずるな、武者どもは必ず戻ってくる。それに平氏がどれほど狂っていようと、寺を襲うことはない。飯綱使いが姫をさらいに来るかもしれぬが、お主がいれば難しいことはないだろう」  よろしく頼むと言い置いて、国守の許へと報告に向かいました。 〈待ってくれ、なぜここで2泊もしなければならない。先を急がなくて良いのか〉  もちろんトオルの声は山犬の口から発せられるはずもなく、疑問ばかりが残ります。国守の菅原氏は今朝、自分の娘を置いて宿を出るほど急いでいました。  旅の一行を狙うのは、東国で威を張る武士だと聞いています。おそらくそれが金時の言う、「平の何某」だと思われますが、それならばどうして敵の近くで日を過ごさなければならないのでしょう。 〈尊い方々は、俺らとは考え方や感じ方が違うのか。ちぐはぐにしか思えぬ〉  トオルの父は異人であり、部落の長をしているため何日も、何カ月も顔を合わせないことがあります。それでも父親の心情を疑ったことはありませんでした。 〈そもそもこの寺に泊まることになると、あらかじめ決められていたのだろうか〉  トオルは山犬の中で、ひとり首を傾げておりました。
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