第3章 武蔵国・芝

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 風はなく、雲もない秋の宵です。宝蔵寺の境内で、山犬は独り十六夜(いざよい)の月を見上げていました。国守の一家は寺の者から、この土地のはなしを聴いています。ぴんと立てられた耳は、壁の内側の音まで聞き取れるのでした。 「姫はまことに物語が好きじゃからな。ひとつかふたつ、寝る前に語り聞かせてやってくれ」  国守は続けて、「わしは息子と明日のことを相談せねばならぬ」と言って、別の部屋へと移ります。残った婦人と娘たちの前で、初老の男と思われるしゃがれた声が物語を始めました。  山犬はぶらぶらと境内を歩き回ります。人よりも格段に耳が良いせいか、トオルが注意を向けさえすれば、語り手の声はどこにいても聞き取ることができました。 「いずれの御代でありましたかな、タケシバという男がこのあたりから京の(みやこ )衛士(えじ)として召しあげられました。男は身のたけ6尺の大男でありましたから、京での仕事も生活も、何もかもがきゅうくつでなりませなんだ。さて、ある日……」 〈俺のじいちゃんも京へ稼ぎに行っていたはずだ。昔のことは忘れた、などと言って何も語らなかったが……〉  聞いているうちに、トオルは祖父の顔を思い浮かべておりました。 〈なかなか面白い語り(ぐさ)ではないか。この者は語りなれているようだ〉  トオルは思いもかけず、話に引き込まれていきます。  寺の者は、かつて「タケシバ」という男が、ひょんな事から姫宮に言葉をかけられ、親しくなったのだと語りました。  京の空の下、タケシバがはるか東の故郷を懐かしんでいると、それを聞いていた姫宮が、「わたくしをそなたの故郷へ連れていくように」と仰せられました。男は「そうあって然るべきか」と感じ、姫宮を背負ってはるか東国へ連れ帰ってしまいます。二人を追って帝の(みかど )勅使(ちょくし)がこの地にやってきましたが、姫宮は「ここは住みよい土地で気に入りました」と申し上げたので、帝はしかたなく姫宮と武蔵国をタケシバに与えました。二人は一緒になり、男は内裏(だいり)のような立派な屋敷を建て、姫宮を住まわせたのです。 「宮が亡くなられたのち男は屋敷を寺にしました。それがこの宝蔵寺、またの名を『武芝(たけしば)寺』の縁起となります」  寺の者は物語を終え、湯をすすりました。国守の婦人と姫君たちは面白い話に膝をうって喜んでいます。月姫も興味をそそられたようで、タケシバや姫宮のこと、子どもはいたのかなど、くり返し聞いていました。 「私たちの『ものがたり姫』は、物語が大好きでたまらないのだから」  婦人が笑いをひそめて月姫に語りかけますと、姉の姫も「ほんとうに」とあいづちを打ちました。 「だって『たけとり』や『うつほ』のように面白い物語ですもの。内裏(だいり)から姫を連れ、(かお)りだけを残し風のように去る……、あずまへ下る途中もいろいろと物語があったのだなどと考え始めると、眠気も失せてしまいます」 「明日は荷の交換やら、武蔵国の国司様へのご挨拶やら忙しいのですから、今朝のように寝坊してはいけませんよ」  夫人に釘をさされ、興をそがれたのでしょう。月姫は、「ではおやすみなさいませ」と答えて、寝るしたくを始めたようです。  トオルは月姫のほほ(・・)がぷくっと丸みを帯びるようすを思い描き、なんだか声を立てて笑いたくなりました。山犬は先ほどからずっと、国守の一家が泊まっている宿の周りをぐるぐると回っております。まるで明月によって地面に黒々と描き出された自らの影と、いっしょに歩き回るのを楽しんでいるようでした。 〈真神はさみしさなどを、感じることがあるのだろうか〉  トオルは山犬の目をとおして、東の空に昇る青い十六夜の月を見つめました。たぶん同じ月を見ている、祖父の仁王丸に会って話をしたくなったのです。異人と鬼神のつながり、なぜ鬼神は現れるのかなど、聞きたいことが山ほどありました。  たとえば異人と鬼神、飯綱使いと鬼神もどき、なにが違うと言うのでしょうか。 〈飯綱使いの鬼神もどきには影がない、と鬼蜘蛛は言っていたな〉  黒い蜘蛛のことを考えていたからかもしれません。月の面(おもて)に、胡麻つぶほどの黒い点が見えました。見えたと思ったのとほぼ同時に、人ならば聞き取れないほど高い音が山犬の耳を打ちます。 〈なにかが風を切って飛んでくる。かなり大きいものだ〉  山犬が弓弦から放たれた矢のように、月に向かって飛び出します。トオルは耳を打ち震わせる音から、昨夜の飯綱使いを思い出しました。  あのときはおそらく、腕ばかりが大きい宇弥太の「や」が鬼綱を投げたのでしょうが、今、まったく同じ音がしているのです。  山犬は宝蔵寺の山門へ跳び上がり、そこから空にかかる月に向けて身を躍らせました。
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