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黒い塊は月の中で、みるみる大きくなりました。まっすぐこちらへ向かってくるのです。
〈真神の眼では人か岩かも分からん。だが狙いは当たっている〉
トオルの見込みどおり、山犬はこちらへ向けて飛んでくる物体と空中で接触しました。地面からおよそ10丈(30米)の高さ、飛び上がったままの体勢で頭突きをくらわします。
目の前に火の粉が散り、鼻の奥で血のにおいがしました。それでも山犬はひるまず、すぐさま腹に向かって鼻先を押し込み、体を丸めます。
飛んできたのは米俵ふたつ分くらいの岩でした。瞬間、頭突きの勢いで宙に止まっています。山犬は腹を中心として縦に渦をまき、渾身の力を込めた尻尾で岩をはたきました。
〈宇弥太との戦いはやはり、加減をしていたのか〉
尻尾で打ち返された岩は、昼間に通ってきた坂道の登り口のところへとまっすぐに向かいます。足場のない空中で、鬼神がふるった力は飯綱使いの腕力よりも強いように思われました。何町も向こうで土煙が上がると、山犬は鼻先を今度は真下に向け、川の淵へ飛び込むようなかっこうで地面に突っ込んでいきます。
前脚だけで踏み固められた道に降り立つと、山犬はそのまま駆け出しました。トオルは部落でいちばん足の速い若者でしたが、これほど速く走ったことはありません。濡れた鼻先を冷やした風が耳元で渦を巻き、唸りながら長く尾をひく笛の音となります。
〈俺には嗅ぎ分けられないが、男の汗くさいにおいがする。誰かが坂の下からあの岩を投げて寄こしたのか〉
考えるひまもなく、山犬は岩の落ちたところにたどり着きました。鼻先を下げると、先ほどから漂っている男のにおいが嗅ぎ取れました。つい先ほどまで、ここに誰かがいたのです。
〈宇弥太のにおいではない。昨夜、俺らの上を飛び過ぎていった、鬼綱か……〉
風を引き裂く、草笛のような音が耳に届きます。トオルが気づくよりも早く、山犬は身を伏せ、すぐに前方へ跳んで地面を転がりました。
「くらえ、くらえ、くらえ、この犬畜生め」
すんでのところで避けた拳が、においを嗅いでいた土にめり込みます。当たったかどうかも確かめず、「くらえ」と叫びながら三度も拳を地に打ち付けました。
〈乱暴な奴だ。……こいつが鬼綱とかいう飯綱使いか〉
山犬が「かっ」と息を吐くと、男は顔を上げました。月明かりに照らされた顔は毛虫のような眉毛が眉間でつながり、厚ぼったいまぶたの下で目玉をぎょろりとむき出しています。白目の中で豆粒のような黒目が小刻みに震え、男がわけも分からぬ激しい感情に突き動かされているのが見てとれました。
「畜生、畜生、犬畜生め。鬼綱さまの邪魔すんな」
叫びながら、鬼綱は腕を振り回します。5尺7寸(170センチ)ほどの身体よりも長く、胴体よりも太い両の腕が左右から迫ってきました。柏手を打つようにして山犬をはさみ、叩き潰そうというのです。
〈宇弥太は3人に分かれて、それぞれ頭や腕、足を強くしていた。こいつは自分の腕の代わりに鬼の腕をぶら下げているのか〉
山犬が上へ跳躍すると、鬼綱はののしりながら蹴り上げてきました。
〈今度は両足を鬼に変えた!〉
身をひねってかわそうとした山犬でしたが、脇腹をかすめた蹴りによって弾き飛ばされ、回転しながら道端の草むらに落ちました。鬼の足がかすめたところは強くこすれて、髪の毛が焦げたようなにおいが鼻をつきます。
〈宇弥太の腕や足とは比べものにならない。こいつは異人もどきというより、鬼綱という名の鬼神もどきだ〉
鬼蜘蛛は「仁王丸の鬼神・守天には遠くおよばない」などと言っていましたが、たとえ片腕だけだったとしても、鬼の剛力は侮ることができません。かつて異人たちによって生み出されたさまざまな鬼神のうちでも、鬼は闘いと暴力に秀でていたからです。
「どこに消えた? 死んだか、死んだか。出てこい、畜生め」
鬼綱はまた、両腕を鬼に変え、すすきや萩を手刀でなぎ払いながら山犬を探しています。
〈真神はただの山犬じゃない、鬼神だ。人を傷つけて喜ぶお前こそ、死んだら畜生に生まれ変わるぞ〉
敵に発見されたとき、山犬は身を低くして待ち構えておりました。鬼綱は満足げに口の端を上げ、気合を発すると、叩き潰そうとふたたび両手を激しく打ち合わせます。
山犬は前へ、鬼綱の胸にむかって飛び込んでいきました。頭突きが胸の真ん中に当たって、鼓を叩くような音が響きます。鬼綱から苦しげな悲鳴があがりました。飛んできた岩をも押し返す力で打たれ、胸から息がすべて押し出されたのです。
鬼綱は苦しさに顔を歪めながらも、丸太のような腕を山犬の胴にまわして締め上げようとしました。
〈うかつだぞ。相手の懐に入ったら、すぐに退かないと逃げ場を失う〉
山犬は紙一重で鬼の腕をすり抜け、うしろへ跳んで牙をむきました。捕まえたと思った相手にまんまと逃げられ、鬼綱は聞き取れないほど支離滅裂な悪口を吐き出します。
トオルはあせりました。
〈敵に気どられないようにしているが、鬼の足がかすったのは昨夜、宇弥太の「や」に殴られたところだ。真神はかなり疲れ、そして苦しんでいる〉
鬼綱という飯綱使いは何があっても、攻めの手を休めないでしょう。激しすぎる気性のせいで、相手が倒れても死ぬまで……、もしかすると死体でさえも痛めつけかねません。
〈こいつは武者ではない。それどころか、いたわりの心のかけらもない〉
鬼綱は口から泡を飛ばし、ほほを引きつらせています。狂気のせいか、黒目がさらに小さくなって、今では筆の先で置いた点のように見えました。
「畜生を始末して、姫をさらう。おいらがマサカド様からほうびをもらうんだ」
〈出来もせぬことを。真神がたやすくやられるか〉
同意したように、山犬が喉から低いうなり声をあげました。
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