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トオルは夕食を待つあいだ、小屋の隅に腰をおろして話を聞いていました。飴色に変色した柱を指でなぞりながら、まぶたの落ちかかった目を祖父に向けます。ちょうど仁王丸が、ふだんはあまり人に見せない左手を鬼蜘蛛に示しているところでした。
「もはや俺は異人ではない。手首より先と、鬼神・守天を失ったのよ」
「お主がそうだと言い張るのなら、それで良い。たとえあの鬼がいたとしても、今のお主にここから上総まで行って戻ってくるほどの長旅は、とうてい無理だろうからな」
祖母のなでしこが胸に手をあて、ほっと息をつきます。トオルは目を見開きました。いつの間にか退屈な話は終わり、誰が東国へ下るかという話柄に移っていたのです。
鬼蜘蛛とその主人が求めているのは異人の助け、つまり鬼神の力ですが、この部落どころか因幡国じゅうを探しても異人はふたりしかおりません。
「部落の長は京へ出稼ぎに出ている。もう一人は出雲へ出かけていて、当分のあいだ帰ってこない」
「上総守が京へ発つのは、あと半月のうちじゃ。胡蝶は月姫さまの身を案じておるのだ」
眠気は一気に吹き飛びました。月姫さま? なんと美しい呼び名ではありませんか。
「半月とな。それでは異人でも間に合うかどうか。国守は京へ上る道すがら、在所在所で警固の武士を雇い入れるのだろう? 国を出でさえすれば、武士だの怨霊だのは追って来られぬのではないか」
鬼蜘蛛はふるふると、頭を左右に振りました。
「お主は東国の武者どもを知らぬから、そう言うのだ。さらに怪しげな力をふるう異人もどき……飯綱使いどもまでが姫さまを狙っておるのじゃ。武蔵国から下総国、上総国までも威をふるう、平家の何某が指図しているという噂でな。関のひとつやふたつ、越えたくらいであきらめるとは思えぬ」
「然りとて国守ともなれば、ひとかどの武士を抱えているのだろう?」
「下毛野金時という、もとは摂関家に仕えていた若武者がいる。渡辺綱が東国に遣わした美丈夫よ。腕もさることながら、腰に履いた黒漆の太刀は鎧帷子さえ両断する業物だとか」
「そのような者が差配するなら、心やすくいられるではないか」
仁王丸は手首から先のない、切り株のような左手を鬼蜘蛛の前で左右に振ります。トオルは思わず姿勢を正しました。部落の大人たちが、「前の長の左手は、渡辺綱に切り落とされたのだ」と噂するのを聞いていたからです。
「金時ひとりでは足りぬ、と吾らは思っている。旅の途中、眠らず休まずという訳にはいかぬからな。せめてもうひとり、異人もどきや武者どもと互角に闘える者が欲しいのだ」
ううむ、と唸った祖父は腕を組みます。
トオルは立ち上がり、声を張り上げました。
「俺が行く。俺なら鬼神とだって闘える」
「なにを言っているの。トオルは里を出て行きたいだけでしょう。それに……、あなたはまだ子供じゃない」
祖母のなでしこが、間髪を入れずに止めに入りました。かわいい孫を、出来るならばずっと手元に置いておきたいのでしょう。
トオルは鼻の穴を広げて言い返します。
「ばあちゃんこそ、なにを言う。『わたしは13歳で生き方を決めた』などと言っていたじゃないか。俺はもうすぐ16だぞ。おのれのことは、おのれで決めて良いはずだ」
すぐに言葉が見つからないのか、祖母は口をきつく結んだまま彼に歩み寄ってきます。仁王丸が立ち上がり、待て、と左手を上げました。
「もう一人前だ。かわいい孫だからというだけで引き留めてはいかん」
なでしこが足を止めると、祖父はトオルの方へと向きを変えました。
「とは申せ、あずまえびすが跋扈する東国へ、孫が殺されに行くのをむざむざと見過ごすわけにはいかない。トオル、分かるな」
ふだんの柔和な表情はどこへやったのか、仁王丸は眉間にしわを寄せ、ぼさぼさの眉の下で目をむきます。トオルは祖父の身体から、のけ反るほどの大風が吹き出してくるように感じました。思わず後ろへさがりそうになるのをぐっとこらえます。
「行きたいと言うのなら、吾が前に力を示せ」
「どうやってだよ、じいちゃん。鬼蜘蛛と闘えとでも言うのか」
鬼蜘蛛がちゃっちゃっと2回、牙を鳴らします。
「なにがおかしい。俺は本気だぞ」
トオルはげんこつで胸の真ん中をどん、と叩きました。
「月姫さま、だったか。姫さまは京へ帰りたいのに、悪党に狙われて困っているのだろう? ならば俺が助けに行く。行かねばならない気がする」
不思議なことに、トオルは東国から来たという鬼神の語った「月姫さま」の話に、胸を突き動かされておりました。わけが分からぬまま、「俺が助けに行かねばならぬ」との思いが胸のうちに湧き出て、居ても立っても居られないのです。
「ここから上総国まで、人の足でふた月はかかる。分かっているのか? たとえ鬼神を打ち負かすほど強くても、間に合わなければしようがない。だから鬼蜘蛛は異人の助けを求めに来たのだ。どうしても行きたいと言うのなら、異人になる以外に道はない。なれるかどうかは験してみないと分からぬが……」
仁王丸はトオルの正面に立ち、顔を見上げました。
「……どうだ、お前の中に鬼神が居るか探ってみるか? それとも、やめにしておくか」
「じいちゃん、俺はどうしてでも東国に行きたい」
なでしこがため息をつきました。
目を向けると、祖母はトオルの顔をまじまじと見ています。彼はふたたび引き止められるのではないかと身を固くしました。
祖母はつと顔を伏せ、無言でかまどへと向かいます。粗朶に種火を取り、明かりを灯しました。間もなく陽が落ちるので、暗くてはいけないと気を遣ってくれたのでしょう。山間の田舎ではとても貴重な灯火は、はなむけのつもりかもしれません。
仁王丸は山の芋に似た左手を、彼に向けました。
「じいちゃん、俺の中に鬼神が居なければ、どうなる?」
「どうもならない。鬼蜘蛛は手ぶらで東国へ帰る。国守は警固の人数を増やすだろう。お前が東国へ行けない……というだけのことだ」
ずぶり、とまるで木の枝が突き刺さったような感覚がみぞおちの辺りにありました。目を落とすと、祖父の左手はトオルの胸元で止まっています。切り株のような手首が押し当てられているのとは別に、見えない手が体内で動いているのを感じました。
「声を出さぬは、見事だ。しばらく動くなよ」
声など、出しようがありません。見えない指が、爪が腹の中をまさぐっているのですから。このままではなにか見つかる前に、身の内がずたずたになってしまうかもしれません。
揺れる灯火に照らされて、仁王丸の顔は深いしわの刻まれた枯木のような翁の相から、彫り深く眉がくろぐろとした鬼の相へ、そしてまた別の相へと、次々に変化していきました。陰が動くたび、腹の中で祖父の手が動き、魂魄が掻き回されるような心持ちです。
どれほど長く時が経ったでしょう。トオルは、もう耐えられない、と音を上げそうになりました。額に浮き出た汗が眉を越えて、目に入ります。
突然、身体の中で手がげんこつの形になり、思い切り引き抜かれました。悲鳴にも似た祖父の声が耳を打ちます。
「居たぞ! こいつは、こいつは手に負えぬほど……、強い」
祖父は両足をふんばり、右手を左腕のひじに添えました。左手の見えないこぶしの真ん中あたり、豆粒大のものが浮かんでいます。
トオルはみぞおちに手を当て、穴が開いていないか確かめつつ、小刻みに震える虫のようなものに顔を近づけました。長い胴体に四つ脚、きりりと巻き上がった尻尾、長い鼻と鋭い牙、豆のようだけれども山犬そっくりの形です。
「トオル、良いか」
仁王丸の額には、脂汗が浮かんでおりました。どうやら見えない手の中で山犬が激しく暴れているらしいのです。
「これから、お前の鬼神を放つ。こいつはとびきりの暴れ者のようだから、主人であるお前に襲い掛かるかもしれない。それでも良いか」
トオルは祖父の目を見返して、こくりとうなずきました。
「鬼神はお前の中にいたもう一人の己であり、ふだんは抑えられている願いが、力を得て具現したものだ。己が知らぬ秘められた望みが、お前を殺すことだってあるのだぞ」
なでしこも鬼蜘蛛も、息をつめて見守っています。トオルは両手をだらりと下ろし、祖父に向かって声を上げました。
「じいちゃん、俺は鬼神の力を手に入れる。そうして東国へ行くことこそが、俺の望みだ」
仁王丸の左手がこちらに向かって突き出されます。鬼神が引っ張っているに違いありません。
「放て!」
トオルの声と同時に、祖父の手元を離れた鬼神が飛びかかってきました。めいっぱい開かれた顎門がみるみる大きくなり、牙のついた口が洞穴のように彼の目の前に迫ります。
次の瞬間、トオルは山犬の鬼神に頭から丸呑みにされました。あっ、と声を上げる間もなく、真っ暗で生臭い穴へと落ちていきます。
黄泉の国までたどり着くのではないかというほどの長い間、トオルは落ち続けました。やがて身体が底に叩きつけられるのを待たずして、彼は気を失ってしまいました。
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