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第2章 下総国・すみだ川
気が付いたとき、トオルは全力で月下の野を走っていました。――ここはいったい、どこでしょう。彼はとまどいました。
身の内から取り出された山犬の鬼神に飲み込まれ、腹の中へと落ちていったところまでは覚えているのですが、気を失ってしまい、後のことはなにも覚えておりません。
ススキの尾が中天に昇りかけた十八夜の月光を受けて輝き、どこまでもつづく平坦な野に銀色の波を起こしています。見慣れた因幡の山々はどこにもなく、風に混じる潮のかおりや足元の土の感触から、故郷を遠く離れた見も知らぬ地にいると知れました。
力強い四肢は肥えた赤土を蹴り、風を巻き起こしながら彼を前へ前へと運びます。鋭敏な耳には四方の虫の声が響き、敏感な鼻を生命あふれる野の香りがくすぐりました。
トオルは立ち止まって考えようとしました。ところが手足は彼の意思に反して動き続け、身体は前後に屈伸をくり返します。
「因幡真神よ、どうかしたのか」
トオルの耳元で声がしました。声に幼さを残した女性が彼の背に乗り、首周りのふさふさした毛に両手でしがみついているようです。
いったいトオルの身に何が起きたのでしょうか。声の主は何者で、なぜ彼の背にまたがっているのでしょうか。彼は意識をなくしていたのに、どうして身体を走らせることが出来たのでしょう。
のどが低い唸り声を立てます。まるで犬のようだなと思った矢先、彼の身体は軽やかに宙を舞い、足音も立てずにススキの原にできた水たまりに降りたちました。
少女の声が、頭の上から降ってきます。
「ああ、おどろいた。いきなり跳ぶんだもの。のどが渇いて水を飲みたいのなら、そう言ってくれればいいのに」
トオルの耳には、彼女の言葉は届いていません。水面に映った姿を見て、息をすることさえ忘れていたからです。
突き出た鼻、唸り声の漏れ出る牙の生えた口、とがった耳、月のように青白く光る両のまなこ。体中を覆う青白橡の毛皮には、ところどころに浅葱色の渦巻き紋が浮き出ていました。
その姿は――彼の身体は――山犬だったのです。
先ほどからの声の主は、熊ほども大きい山犬の背に乗り、両手いっぱいに首のまわりの毛皮をつかんでいる女の子でしょう。見たこともないほど色あざやかな袿をまとい、身を乗り出して水鏡をのぞき込んでいました。
少女は年のころ12歳、13歳でしょうか。梳られた長い黒髪は、彼女の身が高貴である証でしょう。見開かれたつぶらな瞳と、高くはないけれど筋の通った鼻、引き締まった唇は、少女の身につけた教養を物語っているように思われます。
見たところ公家の姫君のようですが、そうとは言い切れません。そもそも人の子が、化け物じみた山犬の背にまたがって月夜に野原を駆けているでしょうか。
少女の背後には半ばまで昇った月が顔をのぞかせていました。月が欠け始めているということは、彼は少なくとも半月は意識を失っていたことになります。その間にいったい、何があったのでしょうか。
〈ここはどこだ。山犬に乗っている少女は何者だ。どうして俺は山犬なのか〉
トオルの心が悲鳴を上げると、彼の右手――、つまり山犬の右前脚が勝手に動いて水に映った像を叩きました。
手が水面を打つ感触とともに滴が跳ねとび、顔にかかります。水面が揺れて山犬の姿が乱れました。トオルは身体を動かすことが出来ません。それでも見て、聞いて、触れて、匂いを嗅ぎとることはできます。
いったい、どういうことでしょう。
「何をしているの、冷たいじゃない。それにそんなにかき回しては、だめよ。泥が立って、とてものこと飲めなくなるじゃないの」
山犬は水面に映った像を叩くことで、トオルがけものの中にいることを知らせているのかもしれません。彼の意思ではこの身体を動かすことが出来ない、ということを思い知らされた気がします。
トオルの胸に、すとんと何かが落ちてきました。
〈そうか、この山犬は俺の鬼神だ〉
祖父の家でトオルは、飛びかかってきた山犬の鬼神に丸呑みにされました。もしかすると飲み込まれたのは肉体ではなく、魂魄だったのかもしれません。鬼神は彼の身体を乗っ取り、山犬の姿に変え、わが物のように使っているのです。
〈俺は身体を奪われたのだ。鬼神のすることに手も出せず、ただ見て聞いて、感じることしかできない。こいつはそれを、俺に思い知らせようとして水面を叩いたのだ〉
「水遊びなら、いつでも出来るでしょう? こっそりと抜け出してきたから、のんびりしていられないの。乳母の住む小屋へ急がなくちゃ」
山犬は水たまりに前脚を突っ込んだまま立ち尽くしています。少女が、言うことを聞いているの、と毛を引っ張っても微動だにしません。
〈この子は乳母、と言ったか。やはり公家の姫か勢いのある武家の女、といったところか〉
急に山犬が前脚を動かしました。水面に映った月を、引っ掻こうとします。
「因幡真神よ、今宵のお主は変だ。そんなことで水鏡に映った月を手に入れることなど出来ぬと、分からないわけではないだろうに」
トオルは驚きのあまり、ふたたび気を失うところでした。山犬が彼に伝えたいことが分かってしまったのです。
〈背中に乗っているのが「月姫」か! まだ10歳かそこらの子供ではないか〉
鬼蜘蛛は国守の姫君が東国の武家に狙われている、胡蝶が心配している、と言っておりました。トオルは彼と同じか、少し年増の婦人の姿を心に描いておりましたが、まだ女になってさえいない少女だとは思いもしなかったのです。
「言うこと聞きなさい。早くしないと、金時さまに追いつかれてしまうじゃない」
〈ほんとうに月姫さまか。俺はこの子を助けようとして……、身体を乗っ取られたのだな〉
山犬は月を見上げて吠えました。東国の野にはこだまを返す山々もなく、声はすすきの穂をゆする風にどこかへ運ばれてしまいます。
〈因幡真神とか呼ばれていたが……、鬼神め、俺をあざ笑うか〉
遠吠えが止むと、山犬は前触れもなく北へ向けて走り始めました。月姫が短く悲鳴を上げ、あわてて首にしがみつきます。
〈なんという身のこなしだ〉
少女を振り落とさなかった山犬の体さばきに、トオルは思わず感心してしまいました。理由は分かりませんが、すくなくとも鬼神が彼女を害することはなさそうです。
〈しばらく様子を見ることにするか〉
トオルは東国について、国の名前ぐらいしか知りません。鬼蜘蛛の言ったことが正しければ、彼は今、上総国か武蔵国の野を駆けているはずでした。
ぐるりと山に囲まれた部落で育ったため、目にしているどこまでも平坦な野は夢の中にある景色のようです。彼が現実の世界にいる証は、山犬の敏感な鼻をくすぐる潮の香と、繊細な耳に届く川の流れ、足の裏に感じる土の感触、そして背に乗った少女の重みだけでした。
月姫の口にした、「乳母」のところへと向かっているのでしょうか。鬼神・因幡真神は風を巻いて流れの上へと、すすきの原を駆けていきました。
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