第2章 下総国・すみだ川

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 月が夜空で位置を変えるよりも早く、月姫が声を上げました。めざす乳母(うば)の小屋に着いたのです。  姫は山犬の背から降りて駆け出しました。 「乳母や、乳母や。約束どおり、二の姫が来たぞ」  小屋というのは、こんもりとした小山の上、風除けの木に囲まれた邸の(やしき )ことでした。(あし)の原に掘った竪穴か、せいぜい掘っ建て小屋だろうとたか(・・)(くく)っていたトオルは驚きました。  いかに国守の館で姫の乳母をしているとはいえ、ただの使用人がこれほどの家に住んでいるとは考えられません。トオルの祖父とは幼なじみだという胡蝶。彼女は所縁(ゆかり)のない東国の地で、どのように生き抜いてきたのでしょう。  彼がぼんやり考えておりますと、姫の声を聞きつけた家人が手燭を(てしょく )持って現れ、邸の中へと招じ入れました。  山犬は後を追わず、4つの脚で立ったまま月姫を見送ります。邸の家人に見つかることを恐れてのことかもしれません。  トオルは今こそ鬼神に語りかける良い機会と捉えました。先ほどの行動を考えれば、山犬は彼の考えを読みとれるか、胸のうちの言葉を聞くことができるはずです。  そのとき頭上から、笛の音ではないかと思うほど美しい声が降ってきました。 「因幡真神よ、よく来てくれた。明日はいよいよ旅立ちだな」  鬼蜘蛛の声は鋭敏な山犬の耳をとおして聞くと、上手の歌い手のように伸びやかで豊かな響きを持っておりました。気がつけば山犬は風防ぎの木立から漂う鬼蜘蛛の匂いを嗅ぎとって、鼻を杉の木に向けています。 「どうした、虫の居どころでも悪いのか? 返事くらいはしてもよいではないか。姫は奥へ入ったから、声を出しても聞こえるおそれはないぞ」  語りかけられて、山犬はどうするだろうかと考えているうちに、口からうなり声が漏れ始めました。喉が震え、長い鼻面がむずがゆくなっていきます。  突然、足音が耳を打ちました。  およそ10町先から、二本足の生き物がこちらに駆けてくるのが聞こえます。トオルはいつもなら気付きもしない、男ふたりの汗と垢の臭いが風に乗って漂ってくるのを嗅ぎ取りました。  鬼蜘蛛が糸をたらし、彼の隣、地上5尺ほどまで降りてきました。 「飯綱(いづな)使い……『異人もどき』のひとり、鬼綱(きづな)だよ。もうひとりは……まぬけの宇弥太(うやた)さ」  山犬は首をめぐらして鬼蜘蛛に鼻先を向けます。首をかしげると、相手の鬼神は何にあわてたのか、糸から落ちそうになりました。 「どうした真神、人草(ひとくさ)の真似ごとなどして。あのふたりはお前が器用によけてきた糸の罠にいちいち引っ掛かるから、何をしているか手に取るように分かるだけのこと。鬼神のお主には、言わずと知れたことだろう」  山犬は後ろ足で立ち上がり、ふたたび首を傾げました。身のたけ6尺、トオルが人であったときと、ほぼ同じ目の高さです。 「……もしかしてお前の主人、トオルが中で目覚めたのか?」  まるで人間であるかのように叩頭(こうとう)すると、山犬は四つ足に戻りました。しだいに近付いてくる足音の方へ体を向けます。 「思ったよりもだいぶ早い。口ばかりではなかったのだな。もうすぐ出てくるのか?」  山犬が左右に首を振ると、鬼蜘蛛は「ほっ」と息を吐きました。 「それならばよい。今宵、人の出る幕はないからな。トオルよ聞いてくれ、鬼神・因幡真神はお前の身体を奪い取ったが、お前の代わりに東国へと下り、望みどおり姫さまを守っている。だから無理して出てこようとせず、どうかおとなしく様子を見ていてくれ」  山犬が鼻を鳴らします。まるでトオルの境遇をあざ笑っているかのようでした。 「しっ、黙って話をさせなさい。……国守の一行は昼のうちに車と荷を渡した。朝になれば、全員がすみだ川を渡って武蔵国に入るだろう。月姫さまは乳母が病に()せたと聞き、最後にひと目だけでも、と宿を抜けて見舞いに来て下さった。心やさしいお方よ」  鬼蜘蛛は牙を3回、鳴らしました。敵の足音はもう、5町ほどのところまで迫っています。 「力自慢どもだから、仕掛けを壊すのが早いな。いいかトオル、真神。月姫さまは今、胡蝶と別れの言葉を交わしておる。おそらく今生の別れとなるだろう。大切なときを過ごしているのだ。やつらになど邪魔をさせてはならない」  月が昇りきるまであと一刻、というところでしょうか。濡れた碁石のような5つの目が、月光を映して青く光っています。 「主人の側を離れる訳にはいかないから、私が姫さまをお守りするのもこれが最後だ。私は鬼綱(きづな)と闘う。真神……とトオルは、宇弥太(うやた)と闘い、殺せ。どちらも生かしておいて、なんの益もないからな」  トオルは山犬の中に取り込まれていなければ、驚きのあまり声を上げていたでしょう。因幡国で会ったときは嫗の(おうな )ようだと思っていた鬼蜘蛛の口から、『殺せ』という冷酷非道な言葉が出てきたからです。こちらが非道なふるまいをするつもりで向かうなら、敵も(かたき )また、殺すつもりで刃向かってくるでしょう。  トオルは仏の教えと縁のない世界で育ちました。山に入り罠をもうけたり、狩をしたりしてけものを捕らえ、殺生をしています。肉を食って育ってきたのです。それでもまだ、人を殺したことはありません。  言霊(ことだま)は口より放たれれば、取り消すことはとても難しいと聞きます。すでに生まれてしまった言霊により、彼は右弥太とかいう男と殺し合いをすることになってしまいました。  しかもトオルは鬼神・因幡真神の中にいます。山犬の闘い方といえば、鋭い歯と強いあごで相手ののど笛を喰いちぎるのです。そのとき鼻には血の匂いが満ちるでしょう。生の肉の味がするでしょう。自分と五感を一緒にする山犬が人を襲い、命を奪い、肉を喰う……、彼自身がそうするのと同じです。それではまるきり、けものと違いません。  トオルは闘いの後でも、人の子でいられるでしょうか。
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