第2章 下総国・すみだ川

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 トオルの不安など知らぬかのように、山犬は迫り来る敵に向かって小走りに駆けだしました。鬼蜘蛛が後を追ってきます。月姫の居る邸に闘いの被害が及ばぬよう、喧噪が聞こえぬようにと慮った(おもんぱか  )のでしょう。  敵は3町半ほど先、鬼蜘蛛が邸の周囲に張り巡らした糸仕掛けの罠を人並み外れた剛力で引きちぎり、踏みやぶりして近づいてきます。  鬼蜘蛛は身体の重さなどないかのように、茂ったすすきの穂を踏んで移動していました。おそらく人の背丈ほどの高さに張られた、見えぬほど細い糸に脚を置いているのでしょう。 「トオルに言うが……」  笛の音を思わせる澄んだ声が彼の名を呼ぶと、山犬は鬼蜘蛛のいる側の耳を立てました。 「これから出会う者どもは、飯綱使いと名乗る異人もどきだ。飯綱使いどもが操るのは影を持たぬ鬼神で、喋ることも考えることもできない。だが力はある」  自らの考えを持たぬ鬼神など、トオルにはとても想像できません。彼の知っている鬼神はみな勝手な振る舞いをするし、やかましいほど喋るからです。  鬼神なのにどういうわけか喋らない山犬も、自分の考えをもって行動している、ということは間違いありません。 「真神よ、お主は鬼綱の相手をたのむ。鬼綱は腕か足、いずれかに鬼神もどきを宿す。おのれの身体を鬼の形に変え、鬼の力で闘う。かつて仁王丸が喚び出した守天という鬼にはとおく及ばないが、あやつの剛力はあなどることができぬ」  山犬は「ふん」と鼻を鳴らします。 「闘うのはおのれだと言いたいか、真神。だが中にいるお前の主人にも聞かせておかなければならないのは分かるだろう。……私が相手する宇弥太だが、すこし風変わりだ」  風変わり? トオルは続きに興味をもちましたが、話はそこで終わりになりました。山犬がひと声、「うぉん」と鳴いたからです。  前方で人の足音が乱れ、続いて風が巻き起こりました。トオルたちの正面、ふたりの飯綱使いの居るところから、唸りを上げてなにかが飛んできます。  トオルは風の唸りとともに頭上を飛ぶ塊がなにか、見定めようとしました。残念なことに、犬の目は鼻や耳のように鋭敏ではありません。人と比べると驚くほど視力が悪かったのです。  満月で十分明るいのに、岩のような塊がよぎったとしか分かりません。少し遅れて風が運んできた匂いを嗅ぎ、敵の一人だったと知りました。 「あれは鬼綱だ。宇弥太の方をたのむ」  敵が頭上を通過する一瞬の間に糸を引っ掛けたのでしょう。鬼蜘蛛は声を残して、弾かれるように後方に跳びました。山犬の目が遠ざかる黒い蜘蛛を追います。  その間にも前方から、どたどたとぶざまな足音をたてて敵が迫っていました。宇弥太という飯綱使い――異人もどきです。  鬼蜘蛛は「間抜け」、「風変わり」という言葉を使いましたが、いったいどのような相手でしょう。 〈いずれにしても、鬼神の敵ではないだろう。山犬……いや真神に殺されないていどに強ければよいが〉  トオルは幼いころ、錆びた鉄の輪を口にふくんだことがあります。ふいにその味と匂いを思い出しました。 〈もしかすると、血の味と匂いを思い出しているのは真神かもしれぬ。……すでに何人か喰い殺しているのではないか〉  トオルは暗い気持ちになりました。山犬は彼の気持ちを知ってかしらずか、足を止め、鼻を高く掲げて敵が近づくのを待つのでした。
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