第2章 下総国・すみだ川

4/8
前へ
/43ページ
次へ
 宇弥太(うやた)という者は間抜けだと聞きましたが、ただ臆病なだけかもしれません。 〈敵を目の前にして、何をしておるのだ〉  あとわずか2、30歩先まで来たところで右へ行ったり左へ行ったり、ときには引き返しかけたりと、うろうろし始めたのです。  山犬の背後にはこんもりとした小山の上、邸を囲む風除けの木々が遠目にも見えました。どれほど間が抜けていても道に迷いようがありません。周囲は人の背より高く茂ったすすきの原ですが、山犬は踏み固められた道の上に四つ脚で立ちふさがっているので、敵に見落されることもないでしょう。 〈ここまで来て闘いをためらうのはなぜだ。気が弱いのか、それとも自分のするべきことが分からぬ阿呆か〉  トオルは先ほどまでのためらいを忘れ、焦れったく思いました。これは敵の策かもしれない……と思い始めた矢先、山犬が威嚇の吠え声を上げました。  けものの声に驚いたのか、宇弥太はぴょんとすすきのてっぺんより高く飛び上がり、月光の下に姿をさらしました。見たところはトオルと同じ年頃で、童形の男児です。  敵は手足をばたばたと動かしながらすすきの原に落ち、わめき声を上げました。 「宇弥太、おどろいた。う、や、た、みんながおどろいた」  山犬の耳は20尋(30米)先の声を聞きもらしませんでした。 「宇弥太、因幡真神(いなばのまかみ)、やっつけなきゃ。鬼綱(きづな)、きっと怒る。のみも怒る」  トオルには相手の言うことが理解できません。訛(なま)りで聞き取りにくいせいでしょうが、もともと筋のとおったことを話していないのです。 「う、も、や、も、た、も、よく聞け。三人でひと息にかかれば、すぐに終わる。う、お前、がんばれ。『のみ』に叱られたくないだろ?」  誰かに話しかけているかのようですが、相手の返事はありません。宇弥太いがいに人の匂いがしないので、ひとり言でしょう。 「宇、弥、太、いいな。う、や、た、いくぞ。ううう、やああ、たあっ」 〈なんだ、なにが起こっている〉  草むらから飛び出してきた影が、こちらに向かって走り出しました。顔を伏せ、こちらをなるたけ見ないようにしながら短い手足を目いっぱい振る姿はこっけいです。とてものこと、命懸けには見えません。  先ほど草むらから跳ね上がった宇弥太と比べてかなり背が低く、頭ばかりが大きい侏儒(こびと)です。鬼綱と宇弥太のほかに、敵がもうひとりいたのでしょうか。  足音高く、わめき声をあげて迫りくる敵を、山犬は四つの脚を広げ地を踏みしめて待ち構えました。喉からぐるぐると、威嚇のうなり声を発しています。  敵はついに、あと十数歩というところまで近づいてきました。山犬がその気になれば、もっと遠くに見えたときでさえ、ひと飛びで襲うことができたはずです。  トオルは鬼神・真神が自らの強さに自惚れているのでは、と疑いました。 「おらは宇弥太の『う』だ。いざ……、いざ……、じじじ、じんじょうに……、しょうぶ!」  立ちどまって、しどろもどろに名乗りを上げると、こちらへ向けて足音高く駆け出します。ところがほんの2、3歩走ったところで足がからみ、五体を前へ放り出すような形で転んでしまいました。「ばちっ」と、体軀のわりに大きな顔が泥を打ち、音を立てます。 〈鬼蜘蛛の言ったとおり、間抜けなやつだ〉  山犬も呆れたのか、「ぶふん」と長い鼻から息を吹き出しました。 「やああああ、あああ」  トオルと山犬の右手から、突然、気合いを発する侏儒が殴りかかってきました。 「たあっ、たあっ」  左手からも同時に、叫び声を上げた侏儒が、飛び出してきます。 〈危ない! 左右から、はさみ撃ちを仕掛けてくるとは〉  身体を動かせないトオルがただ驚く間に、山犬は素早く宙へ跳び上がり、左右から同時に襲いかかってきた敵をかわしておりました。  右の胸に、刺すような痛みが走ります。殴りかかってきた敵のこぶしが当たり、あばらを傷めたのかもしれません。山犬は苦しそうに息を吐き出します。  その直後、「ごおん」という音が、頭がいに響きました。目から星が散り、鼻の奥に血の匂いが充満します。先ほど転んだ正面の敵が跳び上がり、まるで鹿の角突きのように頭から突っ込んできたのです。 〈こいつら、強いぞ〉  山犬は真正面から頭突きをくらい、後ろへ弾き飛ばされました。それでも尾で反動をつけて体をひねり、宙で回転しながら体勢を整えます。  頭突きをしてきた「う」に負けじと、再び殴りかかってきたこぶしを山犬はすれすれでかわしました。腕ばかりが不釣り合いに大きいそいつも、極端に背が低い男です。  山犬は間髪を入れず体当たりしてくる相手の肩に脚をのせ、踏み台がわりにしてさらに高く跳び上がりました。3尋半(4・5米)ほどの高みから見下ろしますと、3人の男どもはみな、3尺に足りない背丈であることが分かります。  ひとりは腕が大きく、もうひとりは足が太く長く、そして残りのひとり――宇弥太の「う」と名乗った者――は頭ばかりが大きい男でした。鬼蜘蛛の話では、敵は「鬼綱」と「宇弥太」のふたりだけのはずです。たしかに、つい先ほどまでふたり分の足音しかしていませんでした。  山犬は宙に描いた弧の頂点で、ふんふんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぎます。鼻の穴に入ってくる匂いが宇弥太のものだと、トオルでさえ分かりました。鬼綱の匂いは鬼蜘蛛とともに去り、残る匂いはただひとり分だからです。 〈ひとり分? まさか……、ここにいるのは宇弥太ひとりだというのか〉  山犬はたくましい脚で軽々と地に降り立つと「おう」とひと声、吠えました。前方の3人が声に応じて、びくりと動きを止めます。 「お前なんてな、『や』は怖くないぞ」 「そうだ。『た』も同じだぞ、怖くないぞ」 「……『う』、は……。『う』は、お犬さまが怖い……」  トオルは驚きました。どうりで「う」も「や」も「た」も同じ匂いを持ち、同じ声を出すはずです。3人の男は、たったひとりの「宇弥太」だったのです。 〈これが飯綱使い。宇弥太は鬼神もどきの力で、ひとりが3人に分かれるのだな〉  山犬の聞いた足音はふたり分でしたから、そのときは3人になっていなかった(・・・・・・・・・・・)としか考えられません。  月に雲がかかり、山犬の周囲に影が落ちると、トオルの心は闘いの前よりもさらに暗くなりました。  鬼蜘蛛は「異人もどき」、「鬼神もどき」と馬鹿にしていましたが、先ほどの鬼綱にしろ、目の前の宇弥太にしろ、己の肉体に鬼神なみの力を宿しているのです。鬼神・因幡真神に身体を乗っ取られて山犬の姿になった彼と、敵とのあいだに何の違いがあるでしょう。  国守の姫を守るために東国へ行きたいなど、彼には過分な願いだったのかもしれません。祖父に鬼神を探してくれと頼んだことは、はたして正しかったのでしょうか。  宇弥太は3手に分かれて、こちらへ向かってきます。低いうなり声を上げる山犬の中で、トオルの胸は(うず)くのでした。
/43ページ

最初のコメントを投稿しよう!

19人が本棚に入れています
本棚に追加