第2章 下総国・すみだ川

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 トオルの苦悩を知ってか知らずか、山犬は宇弥太の「う」に向かって行きました。「や」と「た」が左右にすばやく散って、挟み撃ちにする構えをとります。  山犬が襲いかかると、「う」は頭をかかえてうずくまりました。勢いあまって、山犬はうずくまった敵の上を飛び越えてしまいます。振り返ろうとしたところへ足の長い「た」が駆けつけ、わき腹を蹴り上げようとしました。  山犬が右へ跳ぶと、腕の長い「や」が待ち構えていて、力いっぱいこぶしをぶつけてきます。雷のような音とともに、猪に体当たりをされたほどの衝撃が胸を貫きました。  胸から空気がすべて叩き出されてしまっても、山犬は怯みません。着地した瞬間にわざと地面を転がり、踏みつけようとする「た」の攻撃を避けました。立ち上がるとふたたび、「う」に向かって駆け出します。ななめ左手から両腕を広げて迫って来る「や」を見て向きを変え、5尋(7・5米)ほど跳んで間を置きました。 〈これが飯綱使いか。これほどの者でも、東国では「まぬけ」と呼ばれるのか〉  トオルは山犬から伝わってくる、()けるような胸の痛みに苦しみながら、自分の考えが甘かったことを痛感しました。  ろくに話も聞かず、深く考えもせず、「姫を助ける」と言い切った自分が恥ずかしく思えます。敵は殺すつもりで向かってくるのに、闘い方がどうの、血の味がどうのと言っていた自分の愚かさが、憎くてなりません。この場では相手を倒さなければ、自分が殺されてしまうのです。 〈あの「う」は、怖い怖いと言いながらも闘っている。臆病者は、俺だけだ〉  荒い息をつく山犬を休ませまいと、宇弥太が3手に分かれて迫ってきました。山犬はすすんで迎え撃ち、道の上を走ってくる「う」に向かって走ります。  飯綱使いの力には驚かされましたが、鬼神・真神の力もトオルの予測をはるかに超えていました。あれほどの打撃を受けてもあばらの骨は折れず、息をつくだけで胸が痛む状態なのに動きが鈍らないのです。  山犬が身を低くして体当たりすると、「う」は間一髪、「ひゃあ」と声を上げながらわきに転がってよけました。攻撃をかわされて動きが止まったところへ、「や」と「た」が襲いかかります。山犬は後方へ跳びさがり、3人の作り出す囲みを脱け出しました。 〈なんということだ。宇弥太は間抜けなどではないぞ〉  手足が短く頭ばかり大きい、怖がりの「う」は3人のうちで最も弱く、敵に狙われやすいのです。それを逆手にとって、「う」が敵を引きつけている間に「や」と「た」が左右にまわり込み、敵をはさみ撃ちにするのが宇弥太の闘い方でした。山犬は敵の策にまんまと引っかかっているのです。  5つの眼を持つ鬼蜘蛛ならば、3人の敵と同時に闘うことが出来るでしょう。宇弥太の相手は自分がすると主張していたのは、正しい判断だったのです。ところが敵の奇襲で、鬼蜘蛛は鬼綱を追い、山犬が宇弥太と闘うことになりました。 〈山犬のやり方では(らち)があかぬ。3人を相手にするには、そのような闘い方をしなければ〉  トオルは幼いころに何度もした喧嘩(けんか)や、狒々(ひひ)の化け物と闘った経験から複数の敵を同時に相手してはいけないと知っていました。  木や岩などの障害物を利用して、つねに1対1で闘うのが理想的です。山犬ほど素早ければ囲みの外へ出て、ひとりに仕掛けることもできるでしょう。危険を伴うものの、怪我して動けないふりをして相手を油断させ、近づいてきた敵を攻撃するという手もあります。 〈山犬……、真神(まかみ)には俺の考えていることが分かるはずだが。聞く耳など持っていないかもしれぬ〉  宇弥太たちは敵が弱ったと見たのか、畳みかけるように襲いかかってきます。山犬は3人の間をすり抜け、左端の「や」の背後に回りました。 〈うまいぞ、これで「や」を動けなくすれば、勝負は決まったも同然だ〉  山犬は敵が気づくよりも早く、口を大きく開き……「うおう」と、底響きのする声で吠えました。振り向いた「や」の目は大きく見開かれています。山犬は後脚で前方へ跳ね、揃えた前脚で胸をどん、と突きました。  真神は熊なみの体格をしています。「や」はたまらず後ろへふっ飛び、「う」と「た」に激しくぶつかってなぎ倒しました。山犬は見事に、トオルの思いつきと同じように動いてみせたのです。 〈だが突き飛ばしたのはまずかった。……相手が用心してしまうだけだ〉  彼が心配したとおり、宇弥太は体勢を立て直すと山犬を取り囲むように動き、今度は3人が交互に襲いかかってきました。同時に動くと、間を抜けて背後を取られると知ったためです。  山犬は突き出された拳をかいくぐり、蹴りをかわし、隙をみて攻撃しようとしますが、痛みと疲労のせいか次第に動きが鈍くなってきました。三人の囲みがじわじわと縮まり、拳や足が青白橡の(あおしろつるばみ)毛皮をかすめます。  残った力をふりしぼって血路を開くため、「う」に飛びかかろうと身を沈めたとき、ついに「や」の手が後脚をつかみました。間髪をいれず、「た」が両足を蟹のはさみのようにして山犬の上半身を押さえ、きつく締めつけます。  山犬は身体をくねらせて逃れようとしましたが、さすがの鬼神も人外の力で前脚と後脚を押さえつけられては身動きとれません。 「う、とどめ、刺せ」  宇弥太の「や」が、声を張り上げます。  そうだそうだ、と「た」が同意しました。 「おら、いやだ。おら、のみに食われてねえもん」 「鬼綱に殴られるぞ。それとあいつらに、痛いやつ、くらわされるぞ」 「そうだぞ、ひどい目にあうぞ。『や』の言うとおりだ」  ほかの二人に脅されて、「う」がてらてらと月光を映す刃物を手にとりました。半歩進んでは止まるをくり返しながら、じりじりと近づいてきます。  のみに食われているのといないのとの違いは分かりませんが、闘い方や短い言葉のはしばしから察するに、どうやら「う」は争いごとを好まないようです。小さ刀を握りしめてうろうろ、とどめを刺しに来ないのは、山犬のために時を稼いでくれているのかもしれません。 〈3人の中では力が弱いからか、こいつはもっぱら囮に(おとり )なって敵の注意を引いていた。争いごとが好きではないかもしれないが、命懸けの闘いから逃げるわけでもない。甘い考えは持たない方がよいだろう〉  トオルはふと、山犬が刺されて死んだ場合のことを考えました。彼の魂魄(こんぱく)をのみ込んだ鬼神が死んだら、彼自身の魂はどうなるでしょう。肉体から解き放たれるのでしょうか、それとも山犬とともに滅んでしまうのでしょうか。どちらにせよ彼はもう、人として生きることは望めなさそうです。  山犬は疲れたのか、あきらめたのか、四肢(しし)の力を抜いてぐったりとしています。それでも押さえつけている二人は、力を緩めるほど闘いに不慣れではありませんでした。死はもう目の前に迫っています。 「ごめんな。おら、おいぬ様を殺したくない。けど、あいつら、おっかないんだ」  心の臓をひと突きする刃が振り上げられました。トオルは目をつぶりたく思いましたが、山犬は顔をそむけません。それどころか、これから自分に振り下ろされる凶器をまじまじと見つめます。
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