第2章 下総国・すみだ川

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 振り上げた刃に映った満月が目に飛び込んできた刹那(せつな)、山犬がへそを中心に渦を巻きました。つむじ風に巻き上げられたかのように、四肢を押さえていた「や」と「た」がぶつかり合いながら宙へと昇っていきます。  ふたりは百年育った杉の木よりも高いところまで飛ばされました。そうして絡み合ったまま地面に叩きつけられ、気を失いました。  そのときすでに、山犬は前脚で「う」を踏みつけにして、鋭い牙の生えた顎門(あぎと)をがちがちと鳴らしていました。手にしていた小さ刀は(ちいさがたな )、数歩先の土の上にころがっています。 〈やめろ真神、喰うな。こいつはもう闘えない、殺生をする必要はないんだ〉  トオルの心に、押し倒される寸前の「う」の表情がくっきりと焼きついていました。驚きに目を見開きつつも、口元にはかすかに笑みを浮かべていたのです。 〈こいつはきっと、お前が自由になって喜んだのだ。たのむ、喰わないでくれ〉  トオルが声に出せず胸の内で叫んでいる間も、山犬は牙を鳴らしたり、唸り声を上げたりしています。小刻みに体を震わせる「う」は、そのたびに息をのみ、あるいは手足をばたつかせるのでした。  宇弥太の「う」は胸を押さえられて苦しみながらも、悲鳴を上げずに耐えています。トオルは哀れな侏儒のため、命ばかりは取らぬようにと訴え続けました。  山犬はもはや抵抗できないものをなぶり、楽しんでいるのかもしれません。トオルの願いを聞きいれ、殺すのをやめる代わりに脅しをかけているだけなのかもしれません。とにかく湯が水になるほどの間、山犬は捕らえた敵を責め続けました。  ぐったりとした宇弥太の胸から、山犬はそろりと前脚をどかします。どうやら喰い殺しはしないようでした。  ほっと胸をなでおろしたトオルの――山犬の――鼻を、かつて嗅いだことのない薫風がくすぐります。草の葉の匂い、土の匂い、川の水とほのかな潮の香りに混じって、秋のもの悲しさを想い起こさせる香りがひとすじ流れてきました。  山犬はなにを感じたのでしょうか。深く息を吸うと、鼻面を上げて遠吠えをします。それは闘いの終わりを宣する響きでした。  野性の呼び声に応えるかのように、三町ほど南で馬のいななく声が上がります。山犬はふたたび吠えました。ひづめの音がこちらへ向かってきます。  三度目の遠吠えが終わるころには、馬に乗った狩衣(かりぎぬ)姿の若武者が見えてまいりました。山犬の鼻をとおして、先ほどの香が彼から匂い漂ってきているのが分かります。弦を張った弓を左手に、手綱を持った右手を鞍においた姿はまるで、物語の中からとび出してきたかのようでした。  若武者は山犬の姿を見とがめると、馬からひらりと降り立ちました。 「因幡真神よ、見事なり。三人(みたり)の飯綱使いを一手にて打ち負かすとは」  身の丈は6尺足らずでしょうか。トオルは父親のほか、自分ほど上背のある者を見たことがないので驚きました。東国の武者がどれも、この若武者ほどの体躯をしているのなら恐るべきことです。 「なんだ、生け捕りにしてあるのか。飯綱使いは生かしておかぬ方がよいぞ」  若武者は弦を外した弓を馬の背に立てかけ、腰からすらりと太刀を抜きました。 〈まことに黒い鉄だ( くろがね )と? 聞いたこともないぞ〉  月の光を浴びても照り返しのない刀身は漆を塗り固めたように黒く、高々と掲げると夜空よりも暗く、まるで夜を切り取ってしまったかのようでした。トオルの胸でいわれない不安が渦を巻きます。山犬は身動きせず、漆黒(しっこく)の太刀を目で追っていました。  若武者はあおむけに倒れた「う」の前に立ち、右手で太刀を振り上げ、左手で拝みます。 「ゆるせ。来世では成仏できるよう、あとで経文を唱えてやる」  振り下ろされた刃は黒い風のように、「う」の首に襲いかかりました。 〈やめろ。真神でさえ見逃した命だぞ、お前が奪ってよい道理があるか〉  トオルの思いが通じたのか、「う」は首を落とされる寸前のところで救われました。山犬が疾風のように前方へ飛び出し、太刀風をかいくぐって「う」をくわえ去ったのです。 〈太刀も常のものではないが、この武者はそれこそ尋常の者ではないぞ〉  肩口のあたりに、刺すような痛みが走りました。山犬がすばやく動いてもかわし切れないほどに、太刀の振り下ろしが速かったのです。宇弥太との闘いで、傷どころか毛の乱れさえつかなかった青白橡(あおしろつるばみ)の毛皮が切られ、うっすらと血がにじみます 「おいぬ様、おらを……助けた?」 「因幡真神よ、なんの真似だ。まさかとは思うが……、食うつもりか?」  若武者は「う」を無視して、黒い刀身を布で拭いながら尋ねてきました。山犬の心情を疑うかのように、細い眉が(しか)められています。 「やめておけ。きっと腹をこわすぞ」  おどけた言い回しとは裏腹に声は低く、眉間にしわが寄っています。山犬は宇弥太をかばうように立ちはだかり、四肢をふん張って、ひと声吠えました。 「敵を(かたき )かばうのなら斬る。お主はよいやつだが、情けはかけぬ」  若武者は太刀を構えなおしました。全身に力が漲る(みなぎ )のが、目に見えるようです。  背後に「う」を置いているので、若武者のひと振りをよけることは出来ません。山犬は身を低くして、跳び掛かろうと四肢に力を込めています。真っ直ぐに突っ込むか、上へ跳んで襲いかかるか、いずれにしても太刀を抜いた武家が相手では圧倒的に不利でした。  若武者は摺り足でじりじりと距離を詰めてまいります。彼の間合いまであと一歩。山犬はどのような動きにも対応できるよう、余分な力を入れず自然に立っています。  強者同士の闘い、おそらく勝負は一合でつくでしょう。トオルは息をつめておりました。 「そこまで。味方どうしで争いごとは止められよ」  鬼蜘蛛がやっと声を掛けてきました。若武者が太刀を拭っていたときから、かすかに匂いがしていたことに、トオルも気がついていたのです。 〈もっと早く来てくれてもよいのに。なにを待っていたのだ〉 「真神よ、そんなにふてくされた態度を見せるな。鬼神らしからぬぞ」  鬼蜘蛛は「ふん」と鼻を鳴らした山犬から、若武者の方へと向き直ります。 「下毛野金時(しもつけのきんとき)どの。お越しいただきありがとうございます。宇弥太のことは私にまかせて、邸の方へ。姫さまは胡蝶とお会いなされておられる」 〈これが鬼蜘蛛の噂していた下毛野金時か。摂関家に仕えていたことがあり、渡辺綱が見込んだという男が、これほど若いとは驚いた〉  俺とたいして変わらないではないか、と若武者の姿を眺めます。 〈2つか3つほど歳上だろうが、えらいものだ。武家は皆、こうなのか〉  敵を庇い立てするなら恩も義もなく敵であると、すっぱりと割り切った金時の態度に、武家の強さを垣間見た気がします。トオルは若武者に、恐れにも似た敬いの気持ちを抱いたのでした。
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