春休み

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春休み

・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・ 春休み ・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・ 翌朝、私がいつもの携帯のアラーム音で目覚めると、私の体に気怠さを残して、瀬崎さんはいなくなっていた。 慌てた私は飛び起きる。 階段を駆け下り、見回すと、ダイニングテーブルに書き置きを見つけた。 [ 目覚めるまで一緒にいてやれなくてごめん。 嘉人が心配だから、帰るよ。 また今夜、会いにくる。 夕凪、愛してる。] そうだ。 嘉人くん、昨夜は泣き疲れて寝ちゃったんだ。 瀬崎さんって、いいお父さんだな。 私は、いつも通り出勤の支度をする。 今日は学年の引き継ぎがある。 1年生の学習費で購入した画用紙や作文用紙、カラーペンなどの備品を、進級に伴い、2年生の教材室へ運ばなくてはいけない。 私は動きやすく汚れてもいい、ジャージ姿で出勤する。 「おはようございます。」 私は元気よく挨拶をして職員室へ入る。 「おはようございます。」 席に着くと、武先生が挨拶をしてくれる。 「おはようございます。」 私は改めて武先生に挨拶を返して、机の整理を始めた。 1年分の職員会議の資料や名簿など、そのままリサイクルに出せないものをシュレッダーにかけていく。 そこへ武先生から声がかかる。 「夕凪先生、きりのいいところで教室の方を 片付けに行きましょうか。」 「はい。もう、終わります。」 私は、残り数枚をシュレッダーにかけて、武先生と1年生の教室に向かった。 2人で、2年生の教材室へ運ぶもの、1年生の教材室に残しておくものを仕分けていく。 手を動かしながら、武先生が聞いた。 「もう、瀬崎さんには返事をしたの?」 これは、言っちゃダメなヤツ? 「31日までは、まだ嘉人くんの担任ですから。」 私は返事をごまかした。 「そんなのあと数日でしょ。 黙ってれば分かんないのに、真面目だねぇ。」 武先生は呆れたように言う。 「いえ、そんな事は… 」 「ま、いいや。 とにかく、誰になんて言われても、負けちゃ ダメだよ。 夕凪先生が幸せにならないと、俺が諦めた 意味がないからね。」 武先生はそう言って私の頭をぽんぽんと撫でる。 そういえば、この1年、武先生の頭ぽんぽんに翻弄されたなぁ。 その後、私たちは、2人で荷物を抱えて2階の2年生の教材室へ向かった。 春休み中は、夏休みと違ってやる事がたくさんあるけど、子供がいない分、精神的には気楽に仕事ができる。 明日は、教室の教師机を移動する。 午後、私は、机の中を空にして引き出しの中まで雑巾で拭く。 立つ鳥跡を濁さず。 私は、教室の隅々まで掃除をする。 ロッカーの中、棚の上、棚の中、掃除道具入れの中。 自分の家でもこんなに掃除した事ないのに。 今日はジャージでよかった。 私は今日1日を肉体労働で終えた。 私は廊下を歩きながら、無意識に腰をトントンと叩く。 それを見た武先生が言う。 「夕凪先生、頑張りすぎだよ。大丈夫?」 いや、この腰痛の原因は仕事のせいとは限らない気も… 「ははっ 大丈夫です。 もう若くないって事なんですかね?」 私は笑ってごまかした。 「夕凪先生は、十分若いよ。 じゃなきゃ、俺がじいさんって事に なるでしょ?」 と武先生が笑う。 「武先生は、まだまだ若いですよ。 子供が言ってましたもん。 武先生は25歳だって。」 子供は、なぜか先生の年齢を知りたがる。 そこで「何歳だと思う?」と聞くと、とんでもない数字が帰ってくる事が多々ある。 「この前、子供に歳を聞かれたんです。 『夕凪先生、何歳?』『28』 『じゃあ、武先生は?』『何歳に見える?』 『25!』 思わず脱力しましたよ。 私、武先生より年上に見えてたんだって。」 私が項垂れると、武先生は笑った。 「くくっ それは嬉しいなぁ。 でも、1年生の言う事は間に受けちゃ ダメだよ。 俺、三宅先生に20歳って言ってるのを聞いて 思わず笑ったもん。」 「ふふっ 分かってますよ。 それでもがっかりするのは仕方ないでしょ?」 三宅先生は御歳50歳。 まあ、大人が見れば、少なくとも40を超えてるのはすぐに分かる。 でも、子供にはまだ大人の年齢を推察する能力はない。 私は、体力は使ったけれど、和やかに穏やかに1日を終えた。 帰宅後、メールを確認した私は、いつも通りの簡単な食事を済ませる。 瀬崎さんは、今日は嘉人くんと食事をしてからうちに来るとの事。 私は食器を片付けると、簡単に掃除をする。 休みの日でもないのに掃除をするなんて、この3年間で初めてかもしれない。 シーツも取り替えて、洗濯機を乾燥まで回す。 機械って便利だなぁ。 そんな事を思っていると、玄関のチャイムが鳴った。 瀬崎さん!! 私は、うきうきしながら、玄関を開ける。 「こんばんは。」 私から挨拶をする。 「こんばんは。 もしかして待っててくれた?」 瀬崎さんが嬉しそうに微笑む。 「うん。」 私は、瀬崎さんの背中に腕を回して抱きついた。 瀬崎さんもぎゅっと抱きしめてくれる。 だけど… 「夕凪、上がってもいい?」 瀬崎さんに言われて、初めて気がついた。 まだ、靴も脱いでもらってない。 「もちろん! どうぞ。」 私は、慌てて瀬崎さんから離れた。 「くくっ こんなに歓迎してもらえるとは思って なかった。 お邪魔します。」 瀬崎さんをダイニングに通して、私はコーヒーを入れる。 2人でまったりとコーヒーを飲みながら、ゆったりとおしゃべりをする。 「夕凪、今日は大丈夫だった?」 瀬崎さんが心配そうに尋ねるけど、何を聞きたいのかさっぱり分からない。 「大丈夫って、何が?」 「いろいろ。 あんまり眠らせてあげられなかったから、 ちゃんと起きられたかな…とか、無理させた かな、体でどこか痛い所とかあるんじゃない かな…とか。」 「ふふっ 大丈夫だよ。心配してくれてありがと。」 私が微笑むと、瀬崎さんはほっとしたように、ふぅ…とひとつ大きく息を吐いた。 「よかった。 昨日は、自分で自分が止められなくて、夕凪に 嫌われたんじゃないかと心配してたんだ。」 瀬崎さんが私の手を握る。 「夕凪、今夜も泊まっていい?」 私は嬉しいけど… 「嘉人くんは? 毎晩お父さんがいなくて、寂しがらない?」 「大丈夫。 今朝、様子を見に行ったら、少ししょんぼりは してたけど、暴れたり取り乱したりする程 ではなくなってたし、もともと、長期休暇は 実家に泊まる事が多かったんだ。」 もともと? それって… 「お母さんがいる時から?」 「うん。 今、思えば、嘉人が実家に行きたがったのは、 あいつの暴力から逃げたかったのかも しれない。 実家の両親も嘉人に会いたがったし、母親は 若くして結婚したから、周りの友人がまだ 独身で遊んでるのを羨ましがって、嘉人を 預けて、夜遊びを繰り返してた。」 そんな事って… 「そんなの嘉人くんが可哀想。」 「じゃあ、夕凪ならどうする?」 瀬崎さんは、興味深げに私に尋ねる。 「祖父母が泊まりにおいでって言ってきたら、 夕凪ならどうする?」 どうしよう。 「嘉人くんが行きたいって言うなら、週に1度 くらい行かせるかな。 でも、それ以上はちょっと考えちゃう。 だって、毎日遊びに行ける距離でしょ? 昼間、遊びに行けばいいじゃない。」 美晴だってそう。 毎日、祖父母と会って喋ったり遊んだりするけど、泊まるのは年に数回。 「晩ご飯をお呼ばれして帰ってくるとか、 みんなで一緒に出掛けるとか、そんなに毎日 お泊まりに行かなくても、おじいちゃん、 おばあちゃんと仲良くする方法はいくらでも あると思うんだけど、違うかな? これって、私が実際に子育てしてないから、 そう思うのかな。」 「夕凪の意見はもっともだと思う。 結婚したら、嘉人とも相談してどうするか 考えよう。 嘉人も家の方が居心地が良ければ、そんなに 祖父母のところへ行くって言わなくなるかも しれないし。」 ・:*:・:・:・:*:・ それから、瀬崎さんは、春休み中、毎日うちに来た。 そうして、4月に入り、私は新しい学校へ勤務する。 教室の配置もいろいろな物の置き場所も分からないながらも、他の先生方に聞きながら覚えていく。 私は今年、2年生の担任になった。 嘉人くんと同じ年の子と、嘉人くんと同じ勉強をする。 正直、それは嬉しいんだけど、嘉人くんの同級生を教えるという事は、私が嘉人くんのお母さんになった時、あっという間に保護者に知れ渡る可能性が高いという事だ。 同じ市内なら、違う学校でも、同じ習い事だったり、お母さん同士が知り合いだったりする人が必ずいる。 人の口に戸は立てられない。 「あの先生、教え子のお父さんと結婚したん だって。」 「1年前には、お母さんがいたの。略奪愛?」 そんな事を言われかねない。 そんな不安を抱えながら、春休み最後の週末を迎えた。 私は、久しぶりに瀬崎家の玄関に立った。 チャイムを鳴らすと、程なく玄関が勢いよく開いた。 「あ…れ? 夕凪先生?」 戸惑った表情の嘉人くん。 「こんにちは。」 私が挨拶をすると、 「こんにちは。先生、どうしたの?」 と嘉人くんは首を傾げる。 あれ? 私の異動で泣いたんじゃなかったの? もっと歓迎されると思ったのに。 私は内心、がっかりしながら答える。 「今日は、嘉人さんにお返事をしに来たの。」 「お返事?」 「そう。上がってもいいかな?」 「あ、うん。 パパぁ! 夕凪先生、来たぁ!」 嘉人くんは、部屋の中へ駆け出していく。 私が部屋に入ると、瀬崎さんにリビングのソファーを勧められる。 私が腰掛けると同時に、瀬崎さんがコーヒーを出してくれる。 嘉人くんは、様子を伺うように隣の1人掛けのソファーの背もたれの後ろから私を眺めている。 瀬崎さんは、私の隣に座ると、嘉人くんに声を掛ける。 「嘉人もそこへ座れ。」 戸惑った嘉人くんが私と瀬崎さんを交互に見比べる。 「あ、いいの、そのままで。 嘉人さん、私のお願い、聞いてくれるかな?」 私は、あえて、嘉人くんをそのままに話を始める。 「あのね、お正月に先生の家に遊びに来た でしょ? その時、どんなお話をしたか、覚えてる?」 「美晴ちゃんとお絵描きして、縄跳びした。」 嘉人くんにいつもの元気はない。 嘉人くんは、長年、お母さんの顔色を伺いながら、生きてきた。 今日みたいに、予期せぬ事が起これば、距離をとって様子を伺うのはある意味、仕方がない事なのかもしれない。 「そうだね。 先生ね、嘉人さんにお願いがあるの。 先生、嘉人さんのお父さんのお嫁さんに なってもいいかな。」 嘉人くんは、私の一言一句を噛みしめるように聞く。 そして、その意味を理解した瞬間に、飛び上がった嘉人くんは、そのままソファーの背もたれを乗り越えてきた。 「先生、僕のママになるの?」 嘉人くんは、私のすぐ目の前に立って聞く。 私は、ずっと考えてた事を話す。 「先生ね、嘉人さんのママは、嘉人さんを 産んでくれたママ1人だと思うんだ。 だから、もし、嘉人さんがいいよって言って くれるなら、先生は嘉人さんのお母さんに なろうと思うの。 どうかな?」 呼び方だけの違いだけど、嘉人くんのママの座を私が奪うような事はしたくない。 「ママは、出てったママで、 夕凪先生はお母さんって呼べばいいの?」 「うん。 もし、嘉人さんが、それでいいなら。 先生、嘉人さんのお家に一緒に住んでも いい?」 「うん!! 先生、ありがとう!! やったぁ!!」 嘉人くんは、小躍りして部屋の中を跳ね回る。 ふふっ かわいい。 嘉人くんが賛成してくれて、よかった。 もし、「やっぱりヤダ」とか言われたら、どうしよう…と思ってたから。 「じゃあ、嘉人は、パパが夕凪先生と結婚 してもいいんだな?」 瀬崎さんが最後の確認をする。 「うん。僕、ずっと言ってたでしょ? 夕凪先生にママになってほしいって。」 嘉人くんは、瀬崎さんの首に抱きついた。 「じゃあ、明日は、夕凪ん家に行こう。」 「え?」 私は驚いて隣の瀬崎さんを見上げた。 「お正月に約束しただろ? 夕凪にいい返事が貰えたら、改めて挨拶に 来ますって。 夕凪のご両親にも気持ちよく認めてほしい けど、さすがにそれは無理かな。」 瀬崎さんは苦笑いをこぼす。 「ええ? なんで? 美晴ちゃんは、僕と従兄弟になりたいって 言ってたよ?」 嘉人くんが不思議そうに聞く。 「うん、美晴ちゃんは、きっと喜んでくれる だろうな。 でも、夕凪先生のお父さんやお母さんはなぁ。 パパ、バツイチだし、嘉人は夕凪先生の 教え子だし。」 「バツイチって何? 僕が夕凪先生の教え子だとダメなの?」 嘉人くんは、必死で瀬崎さんに食い下がる。 「バツイチって言うのは、離婚した事がある って意味だよ。 パパは、去年の夏まで、ママと結婚してた だろ?」 「結婚してたら、ダメなの?」 嘉人くんは、素直な分、容赦なく質問責めにする。 だから、私は親子の会話だけど、口を挟んだ。 「ダメじゃないよ。 でもね、夕凪先生のお父さんとお母さんは、 ちょっと心配するの。 嘉人くんのパパは、どうして嘉人くんの ママと仲良くできなかったのかなって。 先生と結婚しても、仲良くできなくて、 別れちゃったらどうしようって。 だから、大丈夫だよってお話してくる んだよ。」 「分かった。 じゃあ、僕も夕凪先生と仲良しだよって 言ってくるよ。」 「ふふっ ありがとう。 嘉人さんがそう言ってくれたら、安心だね。」 「じゃあ、なんで教え子はダメなの?」 あ、忘れてなかったかぁ。 「それはね、先生なのに、嘉人さんのパパと 仲良しだと、テストとか成績とかズルして ないかなって思う人がいるんだ。 もちろん、先生はズルなんてしてないん だけど、みんなは嘉人さんの成績も知らない から、分かんないでしょ? だから、もしかしたら、先生も嘉人さんの パパもみんなから嫌な事を言われるんじゃ ないかなって心配するんだ。」 「そんなの、僕がやっつけてやるよ。 夕凪先生の悪口を言う奴は、僕がとっちめて やるから、心配しなくていいよ。」 ふふっ なんだか、小さな瀬崎さんがいるみたい。 「そうだよね。 じゃあ、きっと大丈夫だね。 嘉人さん、ありがとう。」 私は、瀬崎さんの横にいる嘉人くんの頭を撫でた。 「じゃあ、嘉人、お昼から、おじいちゃん家に 行こう。」 瀬崎さんが言う。 「おじいちゃんとおばあちゃんに、夕凪を 紹介しないといけないだろ?」 「え!?」 いきなり!? 私は、うろたえる。 だって、まさか、今日、ご両親に挨拶するとは思ってない。 「だって、俺は早く夕凪と結婚したいんだ。 挨拶なんてめんどくさい事は、今日明日中に 済ませておきたいだろ?」 まるでそれが当然だと言わんばかりに言われて、私は「はぁ…」と頷くしかなかった。
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