運動会

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運動会

・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・ 運動会 ・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・ 武先生への返事の機会を一度逃してしまうと、今さら感が強くて、改めて返事などできる雰囲気ではなかった。 そのまま9月に入り、二学期が始まる。 始業式をし、夏休みの作品展のための準備をする。 席替えをし、新しい係を決め、班長を決める。 運動会の並び順を決め、子供たちに覚えさせる。 かけっこの並び方、玉入れの並び方、応援の並び方、それぞれ違うので、教える方も覚える方も大変だ。 うちのクラスの発達障害は、嘉人くんだけじゃない。 自閉症の真央ちゃん、LD(学習障害)の南ちゃんがいる。 体育大好きな嘉人くんは、毎日ご機嫌だが、自閉症の真央ちゃんは、応援練習が苦手そう。 何よりLDの南ちゃんは、並び順も覚えられないし、ダンスも覚えられない。応援も覚えられない。困った事だらけだ。 だから、周りの子にお世話をお願いする。 並ぶ時は、隣の子に手を繋いで連れて行ってもらう事にした。 ダンスは休み時間にお友達に教えてもらう。 幸い、うちのクラスには、しっかりしていてお世話好きの女の子が数人いる。 その子達が、競うように南ちゃんにダンスや応援を教えてくれる。 だから、とっても助かる。 クラスの運営は、そういう子たちが頑張ってくれるから、成り立つんだ。 放課後は、競技に使う小道具を準備する。 ダンスに使うポンポンを作り、保護者に配布する出場順を記入するお手紙を作り、高学年の子と委員会の仕事をし、バタバタとしている間に、あっという間に3週間が過ぎる。 毎日の癒しは、夜、瀬崎さんから掛けてくれる電話。 「お疲れ様」と労ってくれて、「頑張ってる」って褒めてくれて、「愛してる」と想いを伝えてくれる。 毎日、幸せを噛み締めながら寝られるなんて、贅沢この上ない。 そして、明日は、運動会本番。 準備は万全のはず。 天気予報も晴れ。 あとはみんなが練習通り、頑張ってくれるだけ。 そんな事を思いながら、瀬崎さんからの電話を待つ。 だけど、いつも10時過ぎに掛かってくるのに、今日は10時半を過ぎてもまだ掛かってこない。 どうしたんだろう。 少し不安になる。 何かあったのかな? 私から電話してみる? でも、担任が用もないのに電話しちゃダメだよね。 でも、このままじゃ、気になって眠れないし。 明日は、早朝から運動会の準備があるのに。 そんな事を考えていると、ようやく電話が鳴った。 「もしもし。」 握りしめた携帯にワンコールで出ると、 『遅くなってごめん、夕凪、待ってた?』 と聞かれてしまった。 だけど、待ってたとは言えなくて… 「大丈夫。」 とだけ答えた。 『明日の弁当を仕込んでたら、つい時間を 忘れちゃってさ。 さっき、時計を見て、焦ったよ。』 「あ、お弁当…」 『うん。 夕凪は? 給食はないだろ?』 「うん。 でも、職員はまとめてお弁当をとるから。」 『そうなんだ。 できる事なら、夕凪にも弁当食べさせて やりたかったけど、無理だもんな。』 「うん。」 そんなの、絶対無理。 『そうだ! 春、お花見行こう。 弁当持って。』 春… 行けるかな? 「うん。」 行きたい。 そう思ったら、つい返事をしてた。 『夕凪も明日は、早いんだろ?』 「うん。」 『じゃあ、おやすみ。 また明日、掛けるよ。』 「うん。おやすみなさい。」 『夕凪、愛してる』 「うん…」 瀬崎さんは、毎回、想いを伝えてくれる。 なのに、私は、「うん」としか言えない。 これでいいのかな。 仕方ないんだけど、申し訳ない。 あと半年。 あと半年で、嘉人くんの担任を外れる。 そしたら、私は、瀬崎さんに想いを伝えてもいいのかな。 絶対、醜聞に晒されるのは目に見えてる。 それでも、私は、瀬崎さんを選ぶ? 例えば、武先生だったら? きっと、誰からも祝福されて、絵に描いたような幸せな結婚ができるのかもしれない。 だけど… 私が好きなのは、武先生じゃない。 なんで、武先生じゃないんだろう。 かっこいいし、優しいし、私の事を想ってくれてるのに。 人の気持ちって、めんどくさいな。 自分の気持ちすら、ままならないんだから。 翌日。 私は、早朝から他の先生方と準備をし、登校時刻を待って、子供たちを迎える。 教室で簡単に朝の会をし、運動会での諸注意を改めて伝える。 子供たちを送り出し、開会式に臨む。 うん。 みんなお利口。 ちゃんと真っ直ぐ並んで、お話を聞けている。 嘉人くんは、地面に足でお絵描きを始めたけど、前から私が睨んでる事に気付いて、慌ててやめた。 だけど、それが長くは続かない。 結局、お絵描きをし、私の視線に気付いてやめるという事を3回、繰り返した。 でも、まぁ、その程度で済んだんだから、嘉人くんなりに頑張ったんだろう。 競技が始まると、嘉人くんは頑張った。 かけっこも玉入れも団別リレーも。 団別リレーは、各クラス男女2人ずつの選抜だ。 クラスで1番早い嘉人くんは、文句なく選手なんだけど、この3週間、運動会練習の時に必ず地面にお絵描きを始めてしまう嘉人くんには、ずっと、 「地面にお絵描きをするような恥ずかしい 子は、リレーの代表選手にはできません! 砂遊びする子もリレー選手、やめさせるよ。」 と脅し続け、今日まで頑張ってきた。 嘉人くんは、動いている間はいいんだけど、じっと待つのは、とても苦手だ。 だけど、日本で生きていく以上、それはできるようにならないと社会に出た時に困る。 朝礼で社長が話してるのに、手遊びしてたらクビになりかねないし、接客中にフラフラしててもクビになりかねない。 どんなにつまらなくても退屈でも、動いちゃいけない時があるという事を、嘉人くんは学ばなければいけない。 だけど、嘉人くんは、今日1日頑張った。 他の子も頑張った。 怪我なく、大きな失敗もなく、無事、終われただけで、みんなに花マルをあげたい。 来週、火曜日には、みんなにご褒美シールをあげよう! 1年生は、シール1枚でとても喜んでくれるから助かる。 そういうところが、かわいいんだよなぁ。 運動会後、疲れた体に鞭打って、片付けを頑張る。 高学年の委員会の子達が頑張ってくれたが、最後はやっぱり教員で片付けるしかない。 疲れた体に嬉しいのが、校長先生や春に転任した先生からの差し入れ。 おいしいお菓子とジュースをいただき、ひと息つく。 あぁ、幸せ。 帰宅後、私はすぐにシャワーを浴びる。 一日中、外にいて、頭の中まで砂にまみれてる気がする。 お湯も溜めて、1日の疲れを癒す。 時刻はまだ7時前。 晩御飯は、あとでいいや。 ちょっと横になって、後から食べよう。 ん? 何かなってる? どこかから聞こえる音楽に意識が少しずつ呼び戻されていく。 なんだろう? 聞いたことがあるメロディ。 っ!! 電話だ!! 私は飛び起きて、携帯を探す。 あった!! 枕元に携帯を発見して、慌てて出る。 「もしもし。」 『こんばんは。』 瀬崎さん! 「こんばんは。」 『くくっ もしかして、寝てた?』 「え?」 なんで分かるの? 『声がなんとなく寝起きっぽいから。』 「うん。 ご飯の前にちょっと…と思ったら、がっつり 寝ちゃったみたい。」 時計を見ると、すでに10時過ぎ。 『くくっ 嘉人と一緒だ。』 「え?」 『嘉人も帰ってすぐ風呂に入れたら、飯 食う前に寝てた。 全然、起きなくて、今も寝てる。 多分、朝までコースだな。』 「なんか、小学生と同レベルって言われてる みたい。」 言われても仕方ない行動とってるんだけど。 『小学生に負けないくらい頑張ったって事 だろ? お疲れ様。』 不思議。 瀬崎さんに労ってもらうと、一気に気分が上昇する。 「瀬崎さんもお疲れ様でした。 応援もお弁当作りも、大変だったでしょ?」 『親が子供のために頑張るのは、全然大変じゃ ないから。 今日は、嘉人の活躍も見られたし、大満足な 1日だったよ。』 電話の向こうで瀬崎さんが笑う。 「そうですね。 嘉人くん、今日はとっても頑張ってました。 順番を待ってる間に地面にお絵描きしたり、 砂遊びしたりしたら、最後のリレーは 出さないよって言ってあったので、一生懸命 我慢してたんですよ。 開会式も閉会式もちゃんと列に並んで 立ってましたし。」 ADHDの子が、運動会で1番辛いのが動いちゃいけない開会式と閉会式。 だけど、嘉人くんは多少、フラフラ揺れてはいたけど、その場を離れる事なく、最後まで頑張ってた。 『そうか。 じゃあ、明日起きたら、それも褒めてやろう。 今日は、リレーとかけっこしか褒めて やらなかったから。』 「ぜひ、褒めてあげてください! そしたら、嘉人くん、また頑張れると 思います。」 『いつもありがとう。 夕凪が担任で、本当に良かった。』 「いえ、私は当たり前の事をしてるだけ ですから。」 『今まで、その当たり前の事をしてもらえ なかったんだ。 夕凪に出会えて良かった。俺も、嘉人も。』 「そんな… 」 『じゃ、夕凪の晩御飯が遅くなるといけない から、切るよ。 また、明日。』 「はい。」 『おやすみ、夕凪。愛してるよ。』 「おやすみなさい。」 瀬崎さんは、こうして毎日、電話をくれる。 仕事と子育てと家事で、きっと私より忙しいのに。 だけど、私は瀬崎さんの好意に何も返せない。 デートもできなければ、好意を告げる事すら出来ない。 瀬崎さんは、そんな私で本当にいいのかな。 っていうか、そもそもなんで私なんだろう。 かっこいいし、社長さんだし、きっと私なんかより素敵な女性は、周りにたくさんいるだろうに。 最初に、真面目で一生懸命なところがって言ってくれたけど、裏を返せば、私にはそれしか取り柄がない。 そんな私のために毎日、時間を割いてくれるなんて、奇跡みたいなものだ。 そんな事を考えながら、温めた冷凍パスタを頬張る。 うん、おいしい。 そういえば、瀬崎さんに教えてもらった冷製パスタ、結局1度も作ってないなぁ。 明日、お休みだし、作ってみようかなぁ。
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