3学期 スタート

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3学期 スタート

・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・ 3学期 スタート ・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・ それから、程なく3学期が始まった。 武先生は、特に変わりなく、瀬崎さんの言うようにストーキングされてる様子もなかった。 帰宅時は特に、ミラーで後続車を気にしていたけど、武先生の車がついてくる様子もなく、アパートの前の道路は元々、車通りの少ない道という事もあり、後続車そのものがいない事の方が多かった。 3学期は、期間が短い上に行事もいくつかあるので、授業計画通りに進まない事も多い。 だけど、ほんの2ヶ月で3学期の成績をつけなきゃいけないから、授業を遅らせる訳にはいかない。 私は、3学期の単元を確実に終わらせる事に集中した。 1月の中旬、私は放課後の教室で、嘉人さんのノートを見つけた。 ランドセルに持ち物をしまった後で、宿題だった計算ドリルのノートを配ったから、ロッカーの上に置き忘れたようだ。 嘉人くんは、その時やりたい事を優先してしまうから、おそらく、ノートをしまいには行ったけど、何か他の事に気を取られた瞬間にロッカーの上にノートを置いた事すら忘れてしまったんだろう。 学校に物を忘れるのは嘉人くんに限った事じゃない。 特に宿題に使う物だと、家で困ってると思うので、私は電話をするようにしている。 もちろん、先生によっては、「忘れる方が悪い」と翌日まで放置の先生もいらっしゃるけど。 だから私は、学校の電話から、瀬崎さんの携帯に電話をする。 プルル… 『はい。』 「瀬崎さんの携帯でしょうか? 私、嘉人さんの担任の神山と申します。」 あくまで、担任として連絡を入れる。 『くくっ ああ、いつもお世話になっております。』 瀬崎さんが電話の向こうで笑う。 「こちらこそ、お世話になっております。」 『嘉人、またなんかやらかしました?』 「いえ、実は今日、嘉人さんが学校に 計算ドリルのノートを忘れまして… 宿題に計算ドリルが出てるので困ってる のではないかと思ってお電話したんです。 とりあえず、今日の宿題は算数のノートに やっていただいても構いませんが、少し 遅くなっても良ければ、私が帰る時に家まで お届けしますけど、どうしましょうか?」 これは、他の子が忘れた時にも言ってる事。 大抵の保護者は、ここで他のノートにやるから届けなくていいと遠慮するんだけど… 『じゃあ、お願いします。 何時頃になりそうですか?』 ………やっぱり。 「瀬崎さんは、何時頃ならお帰りですか?」 『んー、今日はこの後、特にアポも入って ないので、6時半には帰宅できると思います。』 「では、その頃、お伺いします。」 『はい。お待ちしております。』 私が電話を切って席に戻ると、武先生の刺さるような視線を感じた。 「届けるんですか?」 責められてると思うのは、私の被害妄想なのかな? 「はい。 嘉人くんはこだわりも強いので、算数の ノートだと嫌がってやらないのかも しれませんね。」 私は、もっともな理由を答える。 「大丈夫ですか?」 「何がですか? 心配なさるような事は何もありませんよ。」 私は思わず突き放すような言い方をしてしまった。 「ごめんなさい。 嫌な言い方をしてしまいました。」 私はすぐに頭を下げる。 すると、武先生は苦笑いを浮かべながら、 「いえ、俺も嫌なことを言いすぎたのかも しれません。 お互い様です。」 と答えた。 こんないい人がストーカーな訳ないじゃない。 その後、6時半まで仕事をして、嘉人くん家に向かう。 玄関のチャイムを押すと、インターホンから瀬崎さんの声が聞こえる。 『はい。今、開けるよ。』 すると、すぐに玄関が開き、また嘉人くんが顔を覗かせる。 「夕凪先生、パパが、 『どうぞ上がってください』だって。」 嘉人くんはそう言うけれど、やっぱりこの時間に家に上り込むわけにはいかない。 「ううん。 先生、嘉人さんのノートを届けに来ただけ だから。 嘉人さん、もう忘れ物しないでね。」 「うん。 でも、パパ、先生の分もご飯作ってるよ。 先生、また一緒にご飯、食べよ。」 うーん、でもなぁ… 私が返事に困ってると、エプロンで手を拭きながら、瀬崎さんが現れた。 「遠慮しないで、上がって。」 「え、でも… 」 「ムニエル、焼けたから食べるよ。ほら!」 と、瀬崎さんに手を取られ、引っ張られるので、私は床を汚さないように慌てて靴を脱いだ。 そのまま、手を引かれ、ダイニングに連れて来られると、 「はい、座って。」 とまた座らされてしまった。 「ほら、嘉人、運べ。」 瀬崎さんは、嘉人くんに、食器を手渡す。 私だけが座っているのもいたたまれなくて、 「あ、じゃあ、手伝います。」 と私は立ち上がった。 「じゃあ、これ運んで。」 瀬崎さんにスープ皿を手渡され、私はテーブルに運ぶ。 全てを運び終えて、席に着こうとしたら、瀬崎さんが言った。 「嘉人ぉ、なんでお前が夕凪先生の隣なんだ? パパが夕凪先生の隣だろ?」 は!? 瀬崎さん? 「なんで? パパいつもママの前だったでしょ?」 「ママはな。でも、夕凪先生は、パパの隣。」 「なんで?」 「そんなの夕凪先生のそばがいいからに 決まってるだろ? 嘉人、パパに協力するんじゃなかったのか?」 せ、瀬崎さん! この状況、どうすればいいの!? 「ええ!? そうだけどぉ… 僕、給食、いつも夕凪先生の前だもん。 たまには隣がよかったのに。」 ふふっ 嘉人くん、そんな事考えてたの? 「ほら、嘉人は毎日学校で夕凪先生と一緒 なんだから、家ではパパ優先な。」 もう! 子供みたい。 いつもの大人な瀬崎さんはどこへ行ったの? ふふふ 2人のやり取りを聞いてると、自然に顔が綻んでくる。 「嘉人さん、こういう時、どうすれば いいんだった?」 ちょっと前までの嘉人くんは、お友達とこうして揉めるたびに喧嘩してたけど、今は手を出すことはほとんどない。 「じゃんけん!! パパ、じゃんけんしよ!」 嘉人くんはにっこり笑ってグーにした手を顔の前に掲げた。 「ええっ!? マジかぁ。」 瀬崎さんは不平を口にしながらも、楽しそうに手を出す。 「じゃんけん、ぽい!」 嘉人くんの掛け声に合わせて両者が手を出す。 嘉人くんがパーで瀬崎さんがチョキ。 「ちぇっ! じゃあ、パパ代わってあげる。」 瀬崎さんと嘉人くんの席は決まっているようで、2人は入れ替わる事なく、私の食事だけが嘉人くんの隣から瀬崎さんの隣へと移された。 「嘉人さん、上手にじゃんけんできたね。 学校でもいつも上手に譲り合えるように なったから、喧嘩もほとんどしなくなった もんね。 2年生より2年生っぽいよね。」 私は嘉人くんを褒めて頭を撫でる。 嘉人くんは、「へへっ」と照れ笑いを浮かべて、席に座る。 私は、そのまま移動して瀬崎さんの隣に座った。 「いただきます。」 3人で手を合わせて、食事を始める。 「おいしい〜!」 瀬崎さんの料理は、今日もとてもおいしい。 「くくっ それなら良かった。 舌平目じゃなくて申し訳ないけど。」 瀬崎さんが笑う。 「これ、なんのお魚?」 私が尋ねると、 「当ててごらん。」 と返されてしまった。 そんな事を言われても、私は魚の名前すらあまり知らない。 「んー、ヒラメじゃないなら、カレイ!」 「ブッブー」 瀬崎さんが誤答である事を告げる。 「じゃあ、サバ!」 「ブー」 「サンマ!」 「ブー! 形を見れば秋刀魚じゃない事は 分かるだろ。」 「だって、私、魚の名前なんて知らないもん。」 私が口を尖らずと、嘉人くんが不思議そうに言った。 「パパ、夕凪先生より物知りなの?」 私たちは、思わず顔を見合わせた。 「嘉人さんのお父さんは、先生よりいろんな 事を知ってるのよ。 すごいよね。」 私は嘉人くんにそう言った。 父と息子。 絶対、尊敬できる父の方が将来、関係がうまく行く。 ま、実際、私から見ても尊敬しかないような素晴らしい人なんだけどね。 「パパ、すごぉい!」 嘉人くんから、尊敬の眼差しが注がれる。 「ほんと、すごいよね〜 で、答えは? これ、何の魚?」 私が聞くと、 「ヒント! ふた文字の魚だよ。」 と返されてしまった。 「ええ〜、ふた文字の魚って、いっぱいない? じゃあ、ブリ!」 「ブー!」 「イワシ…は三文字だし、ニシンも違うし、 もう分かんないよ。」 私がギブアップしそうになると、またヒントをくれる。 「ムニエルより、フライや開きで食べる事が 多いかな。」 「フライ? 開き? ………!! アジ!!」 私が力一杯答えると、瀬崎さんは優しく微笑んで、 「正解!」 と言った。 「へぇ、アジなんだ。 ムニエルって、白身魚のイメージだったけど、 アジもおいしいね。」 私は隣の瀬崎さんに微笑んで言う。 すると向かいにいた嘉人くんが不思議そうな顔をした。 「なんか、パパと夕凪先生、仲良しになった?」 はっ! しまった!! 一緒にご飯を食べてるから、いつものように砕けすぎた。 「あ、あれ? そう?」 私はうろたえて答える。 「うん。なんか仲良しに見える。」 「嘉人、パパと夕凪先生は、お正月に嘉人と 美晴ちゃんが仲良く遊んでる時に、たくさん お話して仲良くなったんだ。 パパと夕凪先生が仲良くなったら、嘉人も 嬉しいだろ?」 瀬崎さんは、あくまで余裕だ。 「仲良しになったら、先生、ママになって くれる?」 嘉人くんが嬉しそうに瀬崎さんに尋ねる。 くすっ 嘉人くんの後ろにパタパタと揺れる仔犬の尻尾が見えそう。 「そうだな。 もっと仲良くなったら、ママになって くれるかもな。 でも、夕凪先生が嘉人のこと、こんな 暴れん坊の怒り虫、お母さんになるのは 無理!って思ったら、ダメかもしれないぞ?」 瀬崎さんが言う。 嘉人くんは心配そうに私を見て尋ねる。 「僕、暴れん坊? 怒り虫?」 ふふっ かわいい。 「うーん、1学期よりは、大分暴れん坊じゃ なくなったよね。 怒ることはあるけど、手を出す事は なくなったし。 あとは、授業中に勝手に喋るのがなくなれば、 安心して2年生にしてあげられるん だけどな。」 私が言うと、瀬崎さんが反応する。 「嘉人、授業中に喋ってるのか?」 「あ、違うの。 お友達とひそひそお喋りじゃないの。 私の説明の途中で、思った事を勝手に発言 しちゃうの。 だから、話が逸れたり、進まなかったり、ね?」 嘉人くんに視線を送る。 嘉人くんは、ばつが悪そうに目を逸らした。 「ん? それって、授業の邪魔してるって事?」 「まぁ、有り体に言えば… でも、嘉人さんが私の話に反応してくれる おかげで、みんなが話に食いついてくれる 事もあって、悪い事ばかりでもないん だけどね。」 嘉人くんは、いつ怒られるんだろうと緊張してるように見える。 「だから、授業中、聞きたい事、話したい事が ある時は手を挙げられるようになったら、 もう2年生かな。 嘉人さんは、3月までにできるように なるかな?」 私が聞くと、嘉人くんは元気よく答える。 「僕、できるようになる!」 ふふっ こういう素直なところが嘉人くんのいいところだなぁ。 「じゃあ、先生、明日から楽しみにしてるね。」 それから、私たちは、和やかに食事を終えた。 これから計算ドリルを頑張る嘉人くんを残して、私は瀬崎家をお暇する。 はぁ… 瀬崎家に家庭訪問するのは、毎回ドキドキするなぁ。 1回目は、春。 嘉人くんのお母さんにADHDの事を伝えた。 あの時は、瀬崎さんとこんな風になるなんて、思ってもみなかった。 2回目は、夏。 嘉人くんがブランコに乗る田村礼央くんを押して、けがをさせた時。 あの時、瀬崎さんが離婚した事を知ったんだった。 そして、その頃から、嘉人くんが「ママになって」って言い始めた。 3回目は、夏休み。 瀬崎さんに相談があるって言われてお邪魔したのに、なぜか告白された。 でも、もう3学期。 嘉人くんも落ち着いてきたし、家庭訪問はこれで最後かな。 このまま何事もなく、年度末を迎えられますように…
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