ママになって

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ママになって

・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・ 「ママになって」 ・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・ その後、教頭先生や嘉人くんのお父さんとも話し合って、嘉人くんは毎週木曜日の3時間目に通級に通う事になった。 これで、嘉人くんが、少しでも落ち着いてくれたらいいな… そんな事を思っていた7月中旬の金曜日。 下校時刻を過ぎてるのに、嘉人くんはなかなか教室を出ようとしない。 連絡帳には、今日からしばらく、嘉人くんの近所に住むおばあちゃん家に帰ると書いてあった。 「嘉人さん、今日からおばあちゃん家に 帰るんでしょ? 遅くなるとおばあちゃんが心配するから、 早く帰りなさい。」 私は何度も声を掛けるが、何をするでもないのに、一向に帰ろうとしない。 どうしたんだろう? 疑問に思いながらも、とりあえず、下校させなければいけない。 「嘉人さんが帰らないなら、先生、 嘉人さんの事、もらって帰るよ。」 《 いやだ〜 》と叫んで帰る事を想定して言った発言なのに、想定外の答えが返ってきて驚いた。 「いいよ。」 へ!? どういうこと!? 「嘉人さん、先生に貰われてもいいの?」 「うん。 先生、僕のママになってよ。」 は!? 「なんで? 嘉人さんには、素敵なママがいるでしょ?」 「………ママいない。」 いない? あ、旅行? だから、おばあちゃん家に帰るのか! 「お母さんがいない日に嘉人さんが 帰らなかったら、お父さんが寂しがるでしょ?」 「じゃあ、先生が僕ん家に来ればいいよ。 きっとパパも喜ぶよ。」 「そういう訳にはいかないよ。 お母さんは、いつ帰ってくるの?」 「………分かんない。」 ん? 旅行じゃないの? 「どこに行ったの?」 「分かんない。」 どういう事だろう。 「なんで? 嘉人さん、聞いてないの?」 「………昨日の夜、僕が寝てる間に出てった。」 え!? 「お父さんは、なんて言ってた?」 「………ママ、もう帰って来ないかもって。 ねぇ、先生、僕のママになってよ。」 それは… 「嘉人さん。 嘉人さんの気持ちはとっても嬉しいんだけど、 先生はね、嘉人さんの先生だから、 お母さんにはなれないの。 それにね、嘉人さんのお母さんになるには、 まず、お父さんのお嫁さんにならなきゃ いけないんだよ。 だから、ごめんね。」 嘉人くん、こんな下手な説明で分かってくれるかな。 「じゃあ、先生が僕の先生じゃなくなったら、 パパのお嫁さんになって。 それまで、僕、待ってるから。」 うーん… 困った… 「パパがお嫁さんにしてくれるって、 言ったらね。」 「うん、分かった! パパに頼んでおくね。」 嘉人くんは、そのまま元気よく帰っていった。 はぁ… どうしよう… これで良かったのかな… 子供の事だし、春までには忘れるかな。 そこへ、2組の教室から木村先生が現れた。 「神山先生。」 「はい。」 今の聞かれてたかな? 「今夜、飲みに行きませんか?」 「え?」 こんななんでもない時に木村先生に誘われるの、初めて。 「1学期もあと1週間です。 成績も付け終わったし、息抜きしてもバチは 当たらないと思いますよ。」 そう言って木村先生が優しく微笑むから、私はなんだか嬉しくなる。 「はい! そうですね。」 そのあと、私は、返却物の整理やたまった仕事をハイペースで片付けた。 いつも家と学校の往復ばかりの変わりばえのない生活。 たまには誰かと楽しくお食事してもいいよね。 18時すぎ。 「神山先生の家は、この近くでしたよね。 帰りは送りますから、車置いてきてください。 後ろついていきますから。」 木村先生に言われた。 「いえ、そしたら、先生が飲めないじゃ ありませんか。 だったら、私が送りますから、先生こそ、車 置いてきてくださいよ。」 私が答えると、 「代行を頼みますから、大丈夫ですよ。 そういう時は、余計な心配しないで、素直に 甘えてください。」 と木村先生は笑った。 木村先生、もう30代も半ばなのに、こんなに爽やかに笑うなんて、反則でしょ。 「ありがとうございます。 じゃあ、お言葉に甘えて、そうさせて いただきます。」 私はぺこりと頭を下げた。 その後、木村先生は、私のアパートまで来てくれて、私を助手席に乗せてちょっと小洒落た洋風居酒屋に連れていってくれた。 「予約した木村です。」 店に入るなり、木村先生はそう言った。 「え? わざわざ、予約してくださったんですか?」 驚いた私が木村先生を見上げると、木村先生ははにかんだように笑って、 「児童の話もしたいでしょうから、 個室の方がいいでしょう?」 と言った。 「あ、ありがとうございます。」 この人、本当に気遣いができるいい人だ。 なんで、結婚しないんだろ? 私たちは、奥の個室に通される。 「神山先生は、何を飲まれますか?」 木村先生がメニューを見せてくれる。 「じゃあ、カシスオレンジで。 木村先生は、何にされますか?」 「バーボンをロックで。」 私が、注文をしようと、席を立とうとすると、机についた私の手を木村先生がそっと押さえた。 え? 私が驚いて木村先生を見ると、木村先生は優しく微笑んで、 「お酒の注文は、 女の子がするものじゃないよ。」 と言って、2人分のお酒を注文してくれた。 「ありがとう…ございます。」 私は、戸惑いながら、お礼を言う。 「どういたしまして。 さ、もう仕事じゃないから、 敬語もいらないし、楽にしていいよ。」 そう言うと、木村先生は、私の頭をぽんぽんと撫でる。 ぅわっ! それ、ダメだって!! この人、無自覚でこれやってるの? イケメンは恋人以外に頭ぽんぽんを禁止する法律を作ってよ。 される方の心臓がもたないよ。 お酒を飲みながら、木村先生が口を開いた。 「そういえば、子供達、神山先生のこと、 夕凪(ゆうな)先生って呼ぶよね?」 「そうですね。 なんか、最近の保育園は、先生を下の名前で 呼ぶみたいなんです。 だから、木村先生も武(たける)先生って、 呼ばれてますよね。」 「そうそう。 ちょっと落ち着かないけど、その方が子供達が 馴染みやすいなら、俺たちもそう呼んだ方が いいかもね。」 「お互いに、ですか?」 「うん。 ね、夕凪せんせ。」 「ふふっ そうかもしれませんね、武先生。」 私たちは、お互いに顔を見合わせて笑い合った。 「で、瀬崎嘉人は帰りに何をごねてたの?」 「あ、あれですか。 よく分かりませんけど、嘉人くんのお母さんが 出てっちゃったみたいなんです。」 「それは穏やかじゃないね。」 「そうなんですよ。 話した感じだと、多分、お母さんもADHDだと 思いますから、衝動的なもので、今頃、 何食わぬ顔で帰ってきてるかもしれません けど。」 「うーん、でも、心配だなぁ。 精神的に不安定になると、トラブルも増える だろうし。」 「そうですよね。」 木村先生は、いつも親身になってくれて、本当にいい先生だ。 その後もいろいろ相談に乗ってくれて、溜め込んでたものを全部吐き出させてくれた。 2時間ほど経った頃、木村先生から聞かれた。 「夕凪先生は、彼氏いないの?」 「ふふっ いませんよ〜 いたら、金曜の夜に飲んでません!」 「くくっ そうかぁ。 じゃあ、好きな人は?」 「いません! 初任者研修中に別れてから、仕事だけを 頑張ってきたんです。 私の愛情は、全て子供達に注ぎます!」 アルコールが回って、私はご機嫌だった。 明日は休みだし、いい男とサシでおいしいお酒を飲んで、幸せだなぁ。 「武先生は? なんでこんなにいい男なのに、独身なんです?」 「くくっ いい男だと思ってくれてるの?」 武先生、笑うと更にいい男だなぁ。 「思ってますよ。 うちの小学校で1番いい男でしょ。」 「嬉しいなぁ。 ちなみに夕凪先生は、うちの小学校で1番 かわいいですけどね。」 「またまたぁ。 そんな訳ないじゃありませんか。 でも、お世辞でも武先生に そう言ってもらえて、嬉しいです。 ありがとうございます。」 「いえいえ、お世辞じゃありませんよ。 俺、ずっと夕凪先生が好きだったんですから。」 「またまたぁ! じゃあ、いつから好きだったんです?」 その一瞬、武先生は真面目な顔をした。 「んー、もう6年位になるかな。」 私はケラケラ笑う。 「ほら、やっぱり! 私、この学校、3年目ですよ? 前の学校も合わせたって、まだ5年ちょっと しか経ってないんですから、6年は あり得ません。 だいたい、武先生だって、この学校2年目じゃ ないですか。 ダメですね〜 どうせ嘘つくなら、 もっと上手にやってくださいよ。」 「じゃあ、嘘じゃなかったら、夕凪先生、 俺と付き合う?」 武先生はバーボンを舐めるように飲みながら、切れ長の目で色っぽい流し目をくれる。 だからぁ! それ、反則!! 目の保養じゃ済まなくなるでしょ!? 「もう! 酔ってるんですか? 危うく、本気にするところでしたよ。 やめてくださいよ〜 そろそろ、お開きにしましょうか?」 私がそう言うと武先生は、 はぁ… と、ため息をひとつ吐いた。 その後、武先生が私からのお金を受け取ってくれないから、大人しく奢られて、送られて帰宅した。 それにしても、嘉人くん、大丈夫かなぁ。 週末の間に円満解決してるといいなぁ。 今までも、教え子に「ママ!」って間違って呼ばれた事はあるけど、「ママになって」って言われたのは、初めて。 あの時、なんて答えるのが正解だったんだろう? 今、考えても、分かんないよ。
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