夏休み 2度目の週末

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夏休み 2度目の週末

・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・ 夏休み 2度目の週末 ・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・:・:・:*:・ 翌週は、研修などの出張が続いた。 その間、夜になると、毎日、瀬崎さんから電話があった。 「こんばんは」から始まり、その日の出来事など、他愛もない話をする。 そして最後に決まって、 「夕凪、おやすみ。好きだよ。」 と言われる。 そう、土曜の夜、初めての電話で、 「嘉人がいない時は、名前で呼んでもいい?」 と聞かれて、つい「はい」と返事をしたのが間違いだった。 まさか、呼び捨てだとは、思わなかったんだもん。 瀬崎さんの声は、程よく低くて、電話越しで聞くと、それだけでドキドキするのに、名前を呼び捨てになんてされたら、どうしていいか分からなくなる。 そうこうするうちに、あっという間に金曜日。 家庭訪問て、いつ? 週末って言ってたけど、今日? 明日? 明後日? 昼間? 夜? っていうか、ほんとに来るの? 私、どうすればいいの? 好きだとは言われてるけど、返事もしてないし、付き合ってもいない。 でも、うちに来るって、どうすればいいの? 夜10時。 電話が鳴った。 「はい。」 『こんばんは。』 「…こんばんは。」 『今日もお疲れ様。』 「あ、お疲れ様でした。」 『うん、今日はめんどくさい会議があってね、 ほんとに疲れたよ。 夕凪は? 今日も研修って言ってたけど、どうだった?』 「うん、ちょっと眠かったけど、頑張ったよ。」 『そうか、偉い、偉い。』 「あ、バカにしてる?」 『してないよ。 頑張った夕凪を褒めてるだけ。 明日、頑張った夕凪にご褒美、持ってくよ。』 「明日?」 『約束しただろ? 家庭訪問。』 「ほんとに来るの?」 『ほんとに行くよ。 夕凪に会いたいし。』 「……… 」 『何? ダメ?』 「ダメじゃないけど… 」 『じゃあ、何時がいい?』 「え?」 『夕凪の都合に合わせるよ。』 「じゃ、じゃあ、10時。」 『了解。 明日、楽しみにしてる。』 「うん。」 『じゃ、夕凪、おやすみ。好きだよ。』 「お、おやすみなさい。」 はぁぁぁ… なんで、毎回、電話だけで、こんなに疲れるんだろう。 気づけば、焦って、うろたえて、敬語もうまく使えなくて、思いっきりタメ口だったりするし。 明日、私、大丈夫かな。 心臓が壊れるんじゃないかな。 もう、お風呂に入って寝よっ! 明日は早起きして、掃除機をかけなきゃいけないし。 あぁ、でも、明日、うちで何するの? まさか、そういう事はしないよね? だって、付き合ってないし、8ヶ月も待つって言ってくれたし。 ・:*:・:・:・:*:・ 翌日、土曜日。 私は6時に起きて、掃除を始めた。 9時まで頑張って、それから、着替えて化粧をする。 いつもは、子供しか見ないから、ファンデと口紅と眉くらいなのに、今日はちゃんとチークもアイシャドウもマスカラもつけた。 つけた後で思う。 私、何、張り切ってるんだろうって。 でも、少しでも綺麗に見られたいって思うんだもん。 これは、女子の本能だと思う。 10時。 携帯が鳴る。 「はい。」 『瀬崎です。 今、駐車場にいるんだけど、 今から行ってもいい?』 「はい。」 『何号室?』 「あ、105です。」 『了解。すぐ行く。』 ピンポーン ほんとにすぐにチャイムが鳴った。 「はい。」 私が玄関を開けると、瀬崎さんが買い物袋を下げて立っている。 「どうぞ。」 私が言うと、 「もしかして夕凪、緊張してる?」 と聞かれた。 そんな事、聞かれても、正直に緊張してるなんて、言えるわけない。 「大丈夫。 何もしないから、安心して。」 瀬崎さんは、そう言うと、私の頭をくしゃっと撫でた。 「昼飯、作ろうと思って、材料買ってきた。 冷蔵庫、開けていい?」 「え!?」 私は固まる。 だって、見える所しか掃除してないもん。 「くくっ 開けない方がいいんだね。 じゃあ、これ、夕凪がしまってくれる?」 瀬崎さんは全てお見通しみたい。 うろたえる私を見て、楽しそうに笑う。 「それとも、冷蔵庫、掃除しようか?」 私はブンブンと首を振る。 「ダメです! ぜぇったい、ダメ!」 私は瀬崎さんから袋を取り上げて、冷蔵庫に向かう。 「瀬崎さんは、座っててください。」 私は、食材を冷蔵庫にしまって、お茶を用意する。 「どうぞ。」 ダイニングテーブルに湯のみを置いて、私も向かいの席に座る。 「ここ、メゾネットなんだね。 女の子が1階なんて危ないって思ったけど。」 瀬崎さんはダイニング傍の階段を見て言う。 「そうなんです。 これなら、来客から寝室も見えないし、 下の人に気を使って生活しなくてもいいかな と思って。」 「大丈夫? 覗きとか出ない?」 「はい。 これ、中が透けないレースカーテンなんです。 一応、防犯ガラスになってるし。」 「そうか。 色々工夫があるんだね。」 瀬崎さんは、少しほっとしたように言う。 「はい。」 私は返事をしながら、なぜか少し嬉しくなった。 なんでだろう。 瀬崎さんが心配してくれたから? しばらくして、今度はお茶を飲みながら、 「一人暮らしなのに、テーブルは4人掛け なんだね。」 と瀬崎さんが不思議そうに言う。 「普段は必要ないんですけど、家族とか 友達とか来た時に、これくらいないと 不便だから。」 私は説明をした。 「そうか。 家族はよく来るの?」 「たまに。 野菜とか食べきれないくらい持って。」 「くくっ で? 夕凪はそれ、ちゃんと食べるの?」 うっ… 痛い所を… 「食べる時もあれば、学校へ持って行って、 皆さんにお裾分けする時もあります。」 「夕凪、料理、好きじゃないんだ?」 瀬崎さんがくすくす笑ってる。 「そうですけど、何か?」 私はむくれる。 「いや、別に、いいと思うよ。 じゃあ、料理は俺の係ね。」 「え?」 「だって、苦手な事、やりたくないでしょ?」 それって、どういう意味? 将来の話をしてる? 結婚とか? いや、いくらなんでも、まさかね。 「瀬崎さんは? 苦手な事、あるんですか?」 「んー、そうだなぁ、何にも出来ない奴と ずっと暮らしてたから、だいたいできると 思うよ。 ま、あえて言うなら、洗濯とアイロン? ワイシャツとかめんどくさいから、 全部クリーニングに出してるし、 他の洗濯物も、乾燥まで機械任せ。」 「そのくらいの手抜き、普通ですよ。 仕事しながら、家事をして、子育て してるんですから。 つまり、瀬崎さんに弱点はないって事ですよね。 私の方が女子力なさすぎて、落ち込みます。」 はぁ… 「くくっ ありがとう。」 瀬崎さんは嬉しそうに笑う。 「え? 何が、ありがとう?」 意味、分かんない。 「女子力なくて落ち込むって事は、俺に 好かれたいって思ってくれたって事でしょ? すっごく嬉しいよ。」 「あ… いえ… 別に、そういう訳じゃ… 」 私は、慌てて否定した。 「夕凪は、ちゃんと仕事頑張ってるんだから、 家事なんて、適当でいいんだよ。」 「でも、瀬崎さんもお仕事頑張って、 子育ても頑張ってますよね? そういうの、尊敬します。」 しかも、あの嘉人くんの子育てだよ? 普通の子育ての3倍は大変でしょ? 「子育ては、全然、大変じゃないんだ。 いや、大変は大変なんだけど、苦じゃないって 言うのかな? 我が子のためなら、ちょっとくらい大変でも 頑張れるっていうか、んー、ま、嘉人は あんな奴だから、手は掛かるんだけど、 親から見たら、あれでもかわいいんだよ。」 「担任から見てもかわいいですよ。」 お世辞抜きでそう思う。 「ほんとに? 嘉人さえいなきゃ、楽なのにって思ってる でしょ?」 瀬崎さんは、笑う。 「そんな事、思いませんよ。 正直、何年も教師をやってると、そう思う子が 全くいない訳じゃありませんけど、 嘉人くんは、かわいいです。 衝動を抑えられない所はありますけど、 基本的には素直で明るくて人懐っこい ですから。」 「先生にそう言ってもらえると嬉しいなぁ。」 そんな取り留めのない話をして、11時半になった。 「夕凪、そろそろ昼飯、作ろうか。」 瀬崎さんが言う。 「私にも手伝える事、ありますか?」 私は一応言ってみる。 「じゃあ、一緒に作る? 教えてあげるよ。」 瀬崎さんは微笑んだ。 キッチンへ行き、エプロンを着ける。 瀬崎さんは、ちゃんと自分のエプロンを持ってきてた。 私は、まず、さっき飲んだ湯のみを洗う。 それを瀬崎さんが片付けてくれる。 それから、私は、冷蔵庫の中から、買ってきてくれた材料を取り出す。 「何を作るんですか?」 「暑いから、冷製パスタでも、と思ったん だけど、いい?」 「パスタ好きです!」 私が少し大きな声を上げると、 「くくっ 喜んでもらえてよかった。」 と笑った。 恥ずかしい… パスタくらいで喜びすぎた。 「じゃあ、まずパスタを茹でようか。 鍋に湯を沸かして。」 私は言われた通りに、鍋を火にかける。 その間にトマトを刻んで、ツナを水切りして…と、瀬崎さんの指示に従って作っていくと、あっという間にできてしまった。 「すごい! こんなに簡単にできるんですね。」 「やってみれば、簡単だろ?」 「うん。 でも、先生がいいのかも。」 私が言うと、瀬崎さんは嬉しそうに微笑んだ。 「じゃあ、授業料、もらっていい?」 「え?」 私が驚いて顔を上げると、ちゅっという音と共に、左の頬に柔らかなものが触れた。 「っ!!」 私は慌てて、顔を伏せる。 「くくっ 貰いすぎたかな? こっちにお釣りを返そうか?」 瀬崎さんは、指先で私の右の頬をぷにっと突っついた。 返すって、返すって、ええ!? 私は、下を向いたまま、顔を横に振る。 「やっぱり、夕凪はかわいい。 プライベートを知れば知るほど、 好きになるんだけど、どうすればいい?」 そんな事、聞かれても… 私も、瀬崎さんを知れば知るほど、どうしていいか分からなくなるんだけど… 「さ、とりあえず、食べようか。」 瀬崎さんに促されて、席に着く。 瀬崎さんは、なんでこんなに簡単に気持ちを切り替えられるの? 私は、もういっぱいいっぱいなのに。 「いただきます。」 瀬崎さんが言うから、私も慌てて、 「いただきます。」 と手を合わせた。 「ん!? すっごくおいしい!!」 私が言うと、瀬崎さんは嬉しそうに微笑む。 「よかった。」 「このバジルもモッツアレラもすごく 合ってておいしいです。」 「まあ、トマトとバジルとモッツアレラは、 合わないはずがないからね。」 あ、確かに。 「これなら、私1人でも作れるかも。」 「うん、頑張って。」 瀬崎さん、優しいなぁ。 「あ、そういえば、嘉人くんは、今日、 どうしてるんですか?」 「祖父母とデートだよ。 ショッピングモールで、映画見て、 買い物してくるって言ってた。 今頃、嘉人もおいしいもの、食べさせて もらってるんじゃないかな?」 それなら、よかった。 お父さんがいなくて、寂しい思いをしてたら、かわいそうだもん。 「じゃあ、宿題の日記3日分のうちの1日は、 今日の事を書くのかな?」 「ああ、そうか。 早速、明日にでも書かせよう!」 「嘉人くん、夏休みの宿題は、ちゃんと やってますか?」 「全然やらないから、映画で釣ったんだ。 ここまで終わらせないと、映画も 行かせないぞってね。」 と瀬崎さんは笑う。 偉いなぁ。 お仕事だけでも大変なのに、子供の世話をして、宿題もちゃんと見て。 「じゃあ、ご褒美、出そうかな。」 そう言って、瀬崎さんが立ち上がる。 「ご褒美?」 何の? 「昨日、言ったでしょ? 頑張ったご褒美を持ってくって。」 「ああ! あれ、本気だったの?」 お昼ご飯だけでも、十分、ご褒美なのに。 「あれ? 信じてなかったの? 心外だなぁ。」 そう言って、瀬崎さんは持ってきた紙袋から箱を取り出す。 ん? ケーキ? 「多分、ちょうど食べ頃だと思うんだよね。」 ん? プリン? 箱から出てきたのは、白くてかわいいココット。 「うちのデザート。 お取り寄せできるようになったから、 試食がてら、持ってきた。」 プリンかと思ったそれは、表面がこんがりとキャラメリゼされている。 「これ、もしかして、クレームブリュレ?」 私が聞くと、 「そう。 食べてみて。」 と一緒に添えられたスプーンを渡してくれる。 「んー!! すっごくおいしい。 私、クレームブリュレ、大好きでよく 食べるんだけど、これは、その中でも1、2を 争うくらいおいしいよ。」 表面の砂糖のパリパリとした食感と甘さ、下の濃厚でクリーミーなカスタードのバランスが絶妙だ。 「よかった。 商品開発の連中が聞いたら、喜ぶよ。」 「でも、残念だなぁ。」 私は、先日、武先生とレストランに行った時の事を思い出していた。 「ん? 何が?」 「私、Accueil(アクィーユ)大好きだし、また 行きたいんだけど、お一人様じゃ行きづらい じゃない? 女の子同士だと、どうしても、もう少し リーズナブルなお店になるし、武先生は いつでも行ってくれそうだけど、必ず奢って くれちゃうから申し訳なくて誘えないし。」 私がそう言うと、瀬崎さんは眉をひそめた。 「あのさ、あの学年主任さんって、 独身なの?」 「うん。 あんなにイケメンなのに、不思議だよね。 性格だって、優しいし、気遣いもできるし、 絶対、モテると思うんだけど。」 すると、瀬崎さんは突然私の手を握った。 な、何? 「夕凪、今、俺がこんな事言う資格ないのは 分かってるんだけど。」 「何?」 「その、学年主任さんと2人で食事とか できれば行って欲しくない。」 「え?」 「俺は、春まで待つって言ったんだし、 ちゃんと付き合ってる訳でもないし、 おまけにとんでもなく面倒なコブ付きだけど、 夕凪の事は、真剣に好きなんだ。 誰にも渡したくないと思ってる。 だから、その、例え上司でも、デート みたいなのは、心穏やかでいられないと いうか、心配というか… 」 まさか… 「………それって、もしかして、ヤキモチ?」 そんなはずはないだろうと思いつつも聞いてみる。 すると、瀬崎さんは拗ねたような口調で答える。 「悪い? ほんとは、離婚してすぐ、こんな性急に夕凪を 口説くつもりはなかったんだ。 せめて冬まで待って、嘉人の担任を外れてから って思ってたのに、あの人と一緒に食事してる のを見たら、居ても立っても居られなくて… あのまま帰したら、帰りに夕凪を口説かれる んじゃないかとか、最悪お持ち帰りされたら どうしようとか思っちゃって… 」 「ふふっ ふふふっ」 なんか、かわいい。 それに、なんか嬉しい。 そんなに想ってくれてたの? 「なんだよ。夕凪、笑いすぎ!」 「だって… ふふふっ 」 私がなおも笑ってると、瀬崎さんは立ち上がって、私の隣に立ち、肩に手を置いた。 何? 私は首を傾げて、瀬崎さんを見上げる。 すると、瀬崎さんが腰を屈めて、私の顔を覗き込んだ…と思ったら、そのままそこで止まる事はなく近づいて、笑い続ける私の唇を塞いだ。 え…? これって… 焦点が定まらないほど近くに、瀬崎さんの顔がある。 私、今、キス、されてる? 私がようやく現状を把握した頃、瀬崎さんの温もりは、そっと離れていった。 あ… 目、閉じるの忘れた… いや、今の問題は、そこじゃないし! 私、瀬崎さんと、キスした…よね? どうしよう!? 「くくっ 夕凪、赤い顔もかわいい。」 うわっ!! 私は慌てて両手で顔を隠す。 どうしよう!? もう、心臓が壊れそう!! 「な…んで?」 私が聞くと、 「なんでって、夕凪が好きだからに決まってる でしょ。」 と嬉しそうな笑みを浮かべる。 「学年主任さんとは、こんな事しちゃダメ だよ。」 そう言われて、私は、こくこくと頷いた。 するわけ、ないでしょ!? 「ねぇ、夕凪。」 瀬崎さんが私の隣に腰掛けて私の手を握って言う。 「何?」 「予約していいかな?」 予約? 「何を?」 「夕凪の恋人の席。」 「え!?」 「今、付き合えない事は、分かってるけど、 その間に他の奴に夕凪を取られたくないんだ。 春まで、予約席って事じゃ、ダメかな?」 それって、春になったら、付き合うって事だよね? 瀬崎さんの事は、嫌いじゃない。 っていうか、むしろ好き…だと思う。 でも、嘉人くんのお父さんだよ? 保護者だよ? 絶対、あれこれ言われるよね? 何より、私だっていつかは結婚したい。 春には私も28歳。 次に付き合う人は、きっと生涯を共にする人。 瀬崎さんと付き合って、もし結婚ってなったら、私は、嘉人くんのお母さんになるの? 私、大丈夫? 「あの… ごめんなさい。」 「え!?」 瀬崎さんが切なそうな目をする。 「あ、いえ、 その『ごめんなさい』じゃなくて。」 「は?」 「あの、とりあえず、今は空席です。 ただ、いろんなしがらみもあって、春に なっても、瀬崎さんに座っていただけるとは 限らないというか、春までにゆっくり 考えたいな…と思って。」 私がそう言うと、瀬崎さんはほっとしたような笑みを浮かべる。 「ありがとう。 よかった。」 「え?」 今度は私が聞き返す番だった。 なんで、ありがとう? 「確かに先生と保護者である以上、しがらみは あると思う。 でも、2人で相談して協力すれば、それは、 きっと何とかなるよ。 つまり、逆に言えば、それだけって事でしょ? もし、夕凪の気持ちが俺以外の誰かにある なら、いくら頑張ってもどうしようもない けど、夕凪は、しがらみさえなければ、 前向きに考えてくれてるって事でしょ? 今はそれだけで十分だよ。 ありがとう。」 あれ? 何で、あれだけの話で、ここまでお見通し? 「あ、いえ、別に… 」 こういう時、なんて答えればいいの? 「あ、ちなみに、嘉人の事は、気にしなくて いいから。」 「え?」 「ほら、もし付き合って、結婚とかなったら、 嘉人のお母さんにならなきゃいけない…とか 考えなくていいから。 俺は、死ぬまで嘉人の父親だけど、夕凪は あくまで、夕凪のままでいいから。 嘉人の事は全部俺に丸投げで構わないから。」 そう…なの? でも… 嘉人くんは、「ママになって」っていってたよね? もし、瀬崎さんと一緒にいる事になったら、嘉人くんとも一緒にいるんだよね。 それなのに、瀬崎さんに全部丸投げするの? 「………嫌です。」 私ははっきりと言った。 「え?」 今度は、瀬崎さんが驚いた。 「私がどんな結論を出すかは、自分でもまだ 分からないけど、瀬崎さんと嘉人くんを別では 考えられません。 丸投げなんてしたくありません。」 私は、まっすぐ瀬崎さんを見つめる。 すると、瀬崎さんは嬉しそうに微笑む。 「やっぱり夕凪は思った通りの人だ。 優しくてあったかい。」 「あ… 」 恥ずかしい。 私、何、熱弁奮ってるんだろう。 「いいよ、夕凪の好きにして。 嘉人は、ああいう奴だから、夕凪の負担に したくなかったんだ。」 瀬崎さんは、そう言うと、優しく私を抱き寄せる。 Tシャツ1枚の瀬崎さんの胸に頬が当たり、鼓動が伝わってくる。 ドキドキと忙しなく鳴り続ける鼓動。 こんな事しても余裕なんだと思ってたけど、違うの? 私と同じくらいドキドキしてるの? すごく嬉しいかも… 私は、そっと彼のシャツの裾をきゅっと握った。 それから、どれほどの時間が経ったのか、しばらくしてから、彼はそっと腕を緩めて、私から離れた。 「ごめん。 そろそろ帰るよ。」 そう言う彼を私はそっと見上げた。 「もっと一緒にいたいけど、これ以上いると、 もっと夕凪に触れたくなるから。」 そう言われて、私は何も言えなかった。 だって、私も、まだ瀬崎さんの温もりに包まれていたかったから。 外は猛暑なのに… 部屋の中でも、ちょっと動けばすぐに汗ばむのに… それでも彼に触れたいと思うなんて… 「じゃ、夕凪、また電話するよ。」 玄関でそう言うと、彼はまた私を抱き寄せる。 「はい。」 私は彼の腕の中で返事をした。 彼が、玄関を出た後に思う。 これはもうごまかしようがない。 私は、瀬崎さんが好きだって。 だけど、瀬崎さんは嘉人くんの保護者。 春までは、絶対に特別な関係になってはいけない。 だけど、春になれば、いいの? 前の学校でも聞いた事がある。 《 あの先生、 教え子のお母さんと結婚したのよ 》 その先生はすでに50歳を過ぎていて、結婚して15年ほど経っていたにも拘らず、陰口のように言われていた。 もし、私が瀬崎さんとどうこうなれば、同じようにいつまでも言われるのは目に見えている。 私はそれを耐える覚悟はある? 私には、まだその自信はなかった。
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