《序章》桃夭
全1/11エピソード・完結
1/51

《序章》桃夭

 楊(よう)の国に、春がやって来た。  山々の頂きにはいまだ白い雪が残っているけれど、麓では蝋梅(ろうばい)の黄色い花が咲き始めた。日差しによって温められた春風が、その花の香りを乗せて国中に春の訪れを告げる。  この頃になると、この国には語りべがやってくる。彼らは険しい山々を乗り越えながら国から国へと渡り、古い伝承や昔話を子供たちに聞かせて回っている。それを知っている子供達は、蝋梅が咲く頃になると人寄せの鈴の音が鳴る日を心待ちにしていた。  楊の国は大陸の東端にある小さな国だ。そこに住んでいる民人たちの娯楽はとても少ない。だから語りべや旅芸人たちがやって来ると、子供達だけでなく大人達も大いに喜んだ。  蝋梅の花が満開になった頃、民人たちが待ち望んだときがやって来た。国を取り囲む険しい山を乗り越えた語りべが、チリンチリンと鈴を鳴らしながら楊国にやって来たのである。鈴の音が風に乗って聞こえてきたものだから、子供達は我先に家から飛び出して、語りべのあとを追い始めたのだった。  語りべは、国の外れにある大きな湖のほとりへたどり着いた。そこには若い娘達がいて、色とりどりの裳裾を揺らめかせながら薬草摘みに励んでいた。行李(こうり)を背負った語りべの姿を見るや、娘達は薬草を摘んでいた手を留めて、子供達とともに彼の側にやって来た。  語りべは行李の中からすっかりくたびれた草子を取り出した。色あせた表紙には墨で龍の絵が描かれている。その草子の表紙に見覚えがあるのか、集まった子供達が嬉しそうな声をあげる。 「龍になった三娘娘娘(さんじょうにゃんにゃん)のお話だ!!」 「じゃあ、今日のおやつは桃のおまんじゅうだ!!」  わっと沸いた子供達の姿を見て、語りべは焦った顔で言い放った。子供達が言い当てた通り、行李のなかには桃の形をした饅頭が入っている。物語を読み聞かせたあと、子供達に振る舞う予定のものだ。 「こら、当てるんじゃない。まだ、この話を知らないものもいるんだから!」  すると子供達だけでなく、娘達も甲高い嬌声を上げた。この国に住まう若い娘達にとって、語りべがこれから聞かせようとしている話は憧れの物語である。  いつまで経っても落ち着かない様子の子供達と娘達に、語りべは呆れた顔を向けた。そして、草むらに腰を下ろしたあと、節をつけて詩を読み始めたとたん、それまで騒いでいたものらは皆、静かになった。  語りべが朗々とした声で歌い始めたもの。  それは、これから読もうとしている物語の中にある嫁入りの詩(うた)だった。
1/51

最初のコメントを投稿しよう!