《第一章》三娘、かりそめの花嫁となる
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《第一章》三娘、かりそめの花嫁となる

 その日、赤い布で覆われた輿が古い屋敷の前にやって来た。  体格のいい男が四人がかりで担いでいる豪華な輿は、婚礼用のものである。今日はその屋敷の主である宋 寿安(そう じゅあん)の娘・三娘(さんじょう)が、楊国王に嫁ぐ日だ。  赤い衣装に身を包んだ男達は輿を降ろしたあと、門の前で恭しく頭を垂れた。その周りには、幸せな花嫁を一目見ようと大勢の民人たちが詰めかけている。  宋家の三娘といえば、国の誰しもが口をそろえて言う。可憐な姿は桃の花を思わせ、柔らかなその物腰は風に揺れる柳の枝のようだと。だから皆気になっていた。誰が三娘を正室として娶るかを。しかし、いつまで経っても誰かの妻になろうとしなかった。  三娘は、年が明けて齢(よわい)二十五となった。この国の平均的な結婚適齢期は二十代の初めだから、それを考えると彼女は行き遅れと称されても仕方がない年齢となっている。三娘が年ごろになった辺りには、名だたる家から正室に迎えたいとひっきりなしに申し出がなされていた。しかし、彼女の父親はそれを悉く断り続けていたのだった。  三娘は、婚礼用に飾られた私室の奥で椅子に腰かけていた。  壁一面には鮮やかな朱色の布が張られており、三娘が座っている場所のすぐ後ろには、龍が刺繍された赤い布が垂らされている。その両側には、祝いの言葉が書かれた黄色い布が天井から垂らされていた。  夫となる国王から賜った極上の絹でできた赤い婚礼衣装に身を包み、頭からすっぽりと薄い布を被った姿は、国一番の幸せ者に見えるだろう。しかし、布越しに透けて見える表情は、今にも泣きだしてしまいそうなものだった。  わずかに伏せられている黒い瞳は、涙ですっかり潤んでいる。溢れそうな涙を指で何度も拭ったのだろう。目元がすっかり赤くなっていた。衣装と同じように鮮やかな紅が塗られているふっくらとした唇は、固く引き結ばれたままわずかに震えている。頭巾の端が触れている肩も、小刻みに震えていた。そして膝に置かれている小さな手は、何かをぎゅっと握りしめている。彼女が握りしめているものは、幼い頃突如目の前に現れた男からもらったものだった。 「三娘……」  三娘が身じろぎもせず椅子に座っていると、父親がそっと忍び込むように部屋に入ってきた。だが、年老いた父親の呼びかけに、娘は何の反応も示さない。その様子を見て、三娘の側に控えていた使用人達は、皆顔を俯かせた。晴れの日らしからぬ沈んだ空気が漂うなか、父親が娘の元へ近づいたそのときだった。  急に部屋の扉が勢いよく開き、緋色の礼服を着た男が入ってきた。その男は、父親の上官である。年若い上官は、部屋に入るなり三娘と部下を交互に見た後、冷たく言い放った。 「寿安。そろそろ娘御を輿へ」  ついにそのときが来た。三娘は俯かせていた顔を上げる。その拍子に溢れた涙を拭いもせずに、椅子から立ち上がり、父親と上官の側へ近づいた。 「三娘……」 「お父さま……」  三娘は無理に作った笑顔を父親に向けた。赤い布越しに見えた父親の顔は、随分と思いつめたものになっている。それだけでなく、目には涙が浮かんでいた。よく見れば、がっしりとしていた体つきが一回り小さくなった気がする。父親の苦悩の度合いを目の当たりにしてしまい、三娘は赤い紅を差した唇を噛みしめた。  会話を交わすこともないまま、父と娘は見つめ合った。その姿を目にした使用人達は、耐えきれなくなったのか、皆声を殺して泣き始めた。そんな状況の上に、肝心の花嫁がいつまで経っても動こうとしないことに痺れを切らしてしまったのだろう。上官が声を張り上げた。 「さあ! 迎えに来た者たちが痺れを切らしておるのだぞ!」  上官は三娘をじろりとにらみ付けたあと、部下をもにらみ付けた。三娘は握ったものをひときわ強い力で握りしめる。今にも溢れそうな悲しみをぐっと押さえ込み、三娘は頭をわずかに下げた。 「お待たせして申し訳ございません。今すぐ参りますゆえお許しを」  すると、上官はそれ以降何も言わなくなった。  三娘が長年の出仕を終えて家に戻った翌日、宋家に楊国王の使者がやって来た。  その使者から告げられたものは、王からの求婚である。  若き楊国王からの求婚は、まさに青天の霹靂だった。  使者の話によれば、城に出仕していた三娘のけなげな姿に懸想していたという。  楊の国では未婚の娘に、花嫁修業の一環として城への出仕を義務づけている。三娘は十八になった年から城に出仕していて、先代の王妃に仕えていた。二年前、先代の王が身罷ったときに退くつもりであったけれど、その後即位した王に請われて出仕を続けていたのである。  宋家は国の役人を代々務めている家だが、そう大した家格ではない。現に三娘の父親が身につけている礼服は深緑色。礼服の色は即ち位階を示している。深緑色の礼服は、下位の役人用のものだった。そのような家の娘が、小さいながらも一国を治める王の正室にと望まれているのだ。  だから王のもとへ上がるよう命が下ったとき、父と娘以外の人間たちは大いに喜んだものだった。しかし、当の本人は喜びもしないばかりかさめざめと泣き崩れてしまい、父にいたっては苦悶の表情を浮かべている。その理由が分からない人間たちは多いに困り果てていた。  三娘の父親が、どのような結婚話をも断り続けていたのには理由がある。それは、三娘が縁談を断り続けている理由を知っているからだった。三娘が縁談を断り続けていたのは、幼い頃に約束を交わした男を待っていたからである。彼女が握りしめているものは、そのとき結納替わりに渡されたものだった。  しかし、その男は現れない。それに、いかなる内容のものだとしても、王命に逆らうことは不敬罪とみなされて、一族全員処刑されてしまうだろう。三娘の父親はそれすら覚悟していたが、賢明な娘である。すぐにそのことを察し王命を受けたのだった。  三娘は部屋を出たあと、歩き出した。  屋敷を出ると、門の外に婚礼用の輿と従者の姿が見えた。それらを取り囲むように、大勢の民が詰めかけている。それらを見たとき、三娘は自分自身の輿入れなのに他人事のように思えたものだった。それはもしかしたら、望まぬ輿入れだからかもしれない。三娘はそれまでずっと握りしめていた手を開き、古ぼけた袋を見下ろした。袋の中には幼い頃に渡されたものが入っている。  あれからもう二十年近いときが過ぎた。幼い頃は無邪気に約束を信じていたが、友人たちが次々と花嫁として嫁ぐ姿を目にするたびに、つらくなっていた。いっそのこと、あれは夢だということにして、父親の元に届けられる縁談を受けようと考えたことも一度や二度ではない。しかし、あれは夢ではない。その証拠がある以上、あれは紛れもなく現実の出来事だ。  心の中で葛藤しているうちに、袋を強く握りしめていたのだろう。中に詰められた小さな宝珠の感触が、手のひらに伝ってくる。そう言えば、この中身は確か……。 『この中に入っている宝珠は我の血でできている。何事かあったならそれを放り投げろ。さすれば必ず我の元へ連れて来てくれる』  三娘は男が教えてくれた言葉を思い出した。そのとき光が見えた気がしたけれど、もしも教えてくれた通りになったならば、父親はどうなってしまうのだろう。それを想像したとき、三娘は恐怖の余り気を失いそうになった。  王命に背くことは重罪だ。しかも王の下へ行くことを決めたのは自分自身だ。それなのに逃げ出したとあらば、残された父親は罪に問われてしまい処刑されてしまうだろう。三娘はそれが怖かった。  それに、この宝珠で男のもとへ行けるかどうか分からない。そんな不確かなものに賭けてみても、失敗に終わったら身も蓋もない。だから三娘は改めて心を決めた。このまま王のもとへ行くことを。  三娘は外に出て、門へ向かって歩き出した。輿の前で待っていた従者が一斉に立ち上がる。三娘が長い裾を持ち上げ輿に乗ろうとしたときだった。急に何かに突き動かされたように体が動いてしまい、気づけばそこから逃げ出していた。  走っている間に美しい刺しゅうが施された沓(くつ)が脱げ、頭から被っていた赤い布も落ちた。まとめ上げられた髪が乱れ、歩揺(かんざし)が澄んだ音を立てながら次々と床に落ちていく。荒い息を吐きながら駆け込んだのは、亡き母の部屋だった。  三娘は後ろ手で扉を閉めたあと、握りしめていた袋の中から宝珠を取り出し勢いよく放り投げた。床に落ちた瞬間、轟音とともに赤い炎が立ち上がり、あっという間に全身を包んでしまう。  しかし、熱さは全く感じなかった。炎は三娘を守るように包み込み、ひときわ大きくなったあと、跡形もなくその場から消えてしまった。
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