火龍の花嫁
全3/11エピソード・完結
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《第二章》三娘、仙界にて父親を思う

 色とりどりの花が咲き乱れる美しい庭先で、三娘は岩に腰掛けていた。  岩には窪みがあって、澄んだ水が溜まっており、その水面には父親の姿が映っている。三娘は水色の上衣を羽織った姿でそれを眺めながら、嬉しそうな笑みを浮かべていた。  水面に映る父親は、忙しそうにしていた。どうやら政務の時間らしく、衣冠束帯姿で机の上に山積みとなっている書類を難しい顔で吟味しているようだった。遠く離れた父親の姿を見ているうちに、二人で一緒に暮らしていた日々が蘇ってきて、三娘は涙ぐんでいた。  するとそのとき、急に強い風が吹いた。その風は木々の枝葉や庭に咲く花々を揺らす。三娘は急な突風で乱れた黒髪を手で押さえつつ、瞼をぎゅっと閉じた。彼女が羽織っていた水色の上掛けが、風でふわりと舞い上がり、その下に着ていた若草色の衣の裾がわずかにめくれ上がる。  庭を一瞬で吹き抜けた風が止み、ゆっくりと瞼を開いてみると、水たまりに映っていた父親の姿は消えていた。水盆かわりの水たまりは、一度でも波立ってしまえば、暫くの間何も映らない。それが分かっているので、三娘は悲しげな瞳で揺れる水面を見下ろした。  三娘がいる庭は、仙界の西の外れにある城のなかだった。楊国城より大きな城には、本殿を中心に東西南北に殿舎があり、その周りを高い城壁で囲んでいる。  三娘が住まう殿舎は、城の東にあり青春殿と呼ばれており、春の庭と呼ばれている麗しい庭がある。うららかな日差しが降り注ぎ、春風を思わせる温かな風がそよそよと吹く庭には、桃や桜、木蓮などが咲き誇っていた。その枝には、どこからやってきたのか、美しい鳥たちが羽を休めながらさえずっている。風に乗って鳥たちの可愛らしい声がするなか、三娘は小さなため息を漏らした後、高い城壁の向こうへ目を向ける。  城壁の両端に崑崙山(こんろんさん)と蓬莱山(ほうらいさん)がそれぞれ見えた。いずれも天にそびえ立つほど高い山である。頂上付近が紫色の雲で覆われている高い山を見る度に、三娘はこの地が仙界であることを思い知らされた。  それだけではない。もう二度と父親に会えないことや、結婚の約束を交わした相手と再会できないことをも思い知らされる。三娘が物憂げな表情で山々を眺めている間に、侍女たちがすぐ側までやって来ていた。 「花嫁さま。そろそろお部屋にお戻りくださいませ。このままではお体が冷えてしまいまする……」  茶色の上衣に橙色の腰衣を身につけた年若い侍女から、心配そうな顔を向けられてしまえば、もはや部屋に戻るしかない。三娘は未だ何も映そうとしない水面を眺めた後、後ろ髪を引かれる思いで侍女たちとともに部屋に戻ることにした。  仙界へ戻った翌日から、三娘は日がな一日水盆ばかり眺めていた。  やむを得ない事情から仙界で暮らすことを自ら決めたとて、それをすぐに受け入れられるものではない。物語でしか知り得なかった仙界は、右も左も分からぬ場所だ。殿舎を与えられて住み始めたが、どう振る舞って良いものか分からない。何をするにも、どこに行くにも必ず侍女がついてくる。今までそのような暮らしをしたことがない三娘にとって、それは窮屈以外何物でもなかった。そうした暮らしのなかでの目下の楽しみは、遠く離れてしまった父親の姿を水盆で眺めることだけだったのだ。  しかし、いつも侍女たちによって部屋に連れ戻されてしまう羽目になる。それというのも、三娘のために新しい衣装を侍女たちが躍起となって作っているからだった。三娘が庭から戻ると、昨夜縫い上がったばかりと思える衣が部屋の奥にずらりと並べられていた。そのいずれも城にいる侍女たちが、三娘のためだけにあつらえた品々だった。三娘は侍女たちに案内されて、美しい屏風の前に置かれた椅子に腰かける。すると、色とりどりの衣装を手にした侍女たちが、三娘のもとへとやって来た。 「花嫁さま。午後のお召しものはこの薄紅のものをお召しくださいませ」  侍女が差し出した薄物の上掛けを、側に控えていた別の侍女が手に取り三娘の華奢な肩に掛ける。柔らかな色合いの上衣を重ねられると、側に控えていた侍女たちが一斉に顔をほころばせ、甲高い声を上げる。 「こちらであれば、濃紅(こいくれない)の上掛けがよろしいかと。かわいらしさが引き立ちまする」  薄紅の上掛けを差し出した侍女が嬉しそうな顔を向けてきた。しかし、別の侍女が紫色の薄物の上衣を手にしたまま、しょんぼりとした顔をする。 「襟に桃の花が縫い取られたこちらの方がかわいらしいと思うのですが……」  それに気がついたのか、薄紅の衣を勧めた侍女が機転を利かせて紫色の上衣を手に取った。 「そのお色なら、こちらの上掛けがよろしいかと。夜のお召しものはそちらにいたしましょうか」 「でも、この桃の花のお色の着物なら同じ桃色の上掛けのほうがかわいらしゅうございますね」 「そうね、ではそのお色の上掛けを早速用意いたしましょう」  そう言って侍女たちはいそいそとその場を立ち去っていった。どうやら午後は紅色の衣装に、そして夜は桃色と紫色の衣装に決まったようである。ここで暮らし始めて以来、三娘は日に三回以上衣装を着替えさせられていた。高貴な身分の女人ならば、日に数度の着替えは当たり前だ。だが、自分は下級役人の娘でしかない。それなのに貴婦人のように扱われることが、三娘は面映ゆかった。  三娘が居心地の悪さを感じるのは、衣装のことだけではなかった。部屋の中に置かれている調度品や、食事にしても贅を尽くした物ばかり。そのようななかにいると、自身の居場所ではないような気がしてどうにも落ち着かなかった。  三娘の実家である宋家は、経済的にさほど恵まれた家ではない。必要最低限の家具しか揃っていなかったけれど、それらは皆頑丈で実用的なものだった。家だってあちこち痛んでいたけれど、雨露を凌げる分には申し分がない。それになんといっても心優しい父親とともに暮らした毎日は、とても満ち足りたものだった。  だが今は豪奢な部屋で、華美な調度品に囲まれて暮らしている。時間になると侍女が運んできてくれる食事だって、国にいたときには口にしたことがないものばかりだった。それに辺り一面に広げられている衣装だって、それはそれは見事なものばかり。年頃の娘なら一度は夢見るような暮らしだが、三娘の心は重く沈んでいた。  仙界(ここ)へ来てから、もう何日経ったか分からない。朝目覚めたときから侍女たちに囲まれているけれど、三娘は孤独を感じずにはいられなかった。自らが決めたこととはいえ、国からも父親からも離れた場所で生きていかなければならない現実は、どんなに豊かで恵まれた場所でさえもつまらないものに変えてしまうものらしい。三娘は椅子に腰かけたまま、物憂げな表情でため息をついたのだった。 「明日、湖青姫さまがこちらにいらっしゃるようですの」  夕闇が迫る頃、夜の衣装の着替えをしていたとき、侍女が嬉しそうな顔で三娘に告げた。告げられたはいいが、聞いたことがない名前だけに、三娘は戸惑いながらも笑みで返す。すると、もう一人の侍女が付け加えるように話し出した。 「湖青さまは、火龍さまのすぐ下の妹姫さまで、とても明るいお方ですの。きっと花嫁さまのためにお呼びしたのでしょう」  そう言った途端、部屋にいた侍女たちが一斉に色めき立った。その様を見て、三娘は更に戸惑ってしまう。その言葉をどうとってよいものか分からないからだった。  侍女たちがふだん交わしている会話を聞くと、自分がこの城に住み始めてからというもの、様々なことが変わったらしい。そもそも、この城には火龍と老師と呼ばれる老人がいるだけで、侍女たちは最低限の人数しかいなかったということだった。  それが今では大幅に増えただけでなく、衣装を誂えるものや食事を用意するものまで増えたため、ずっと閑散としていた城が華やかになったと侍女たちは口を揃えて話していたのである。  侍女たちによると、火龍はとても真面目な男らしい。それに堅物だとも言っていた。それは初めて火龍に接したとき、三娘自身も感じたことだった。必ず父親を助けると言われたとき、なぜだか安心感を抱いたのは、真面目さが言動からにじみ出ていたせいであろう。三娘はそのときのことを思い返しながら、侍女たちの話に耳を傾ける。 「湖青姫さまは、とても快活な方ですの。きっといいお話し相手になると思いますわ」 「そうですか……」 「ええ。それにお美しいお姿からは想像できませんが、火龍さまと肩を並べられるくらい武芸に秀でた方ですの。弓を取らせれば、湖青さまに叶うものはいませんのよ」  頬を赤くさせながら侍女が話すと、もう一人の侍女が三娘に話しかけた。 「火龍さまには三人の妹姫さまがいらっしゃるのですが、湖青さまは火焔の宮に、白揺(はくよう)さまは龍王さまのもとに、そして煌朱(こうしゅ)さまは蓬莱におわします東王父(とうおうふ)さまのもとにいらっしゃるのです。皆様とてもお美しく、明るい方々ですの。いずれ湖青さまだけでなく、白揺さまや煌朱さまにもお会いできる機会があると思います。きっと、姫さま方はお喜びになりますわ。だって、とてもかわいらしい方が火龍さまの花嫁さまになるのですもの」  その言葉を聞いて、三娘は顔を曇らせた。しかし、侍女達はそれに気付かず嬉しそうな顔で会話を続けている。父親を助けるために花嫁となったものの、それは仮初めのものだ。現に火龍からもはっきりと言われている。 『そなたと番(つがい)になるつもりはない』  番(つがい)とは夫婦を差す言葉らしいが、それよりもっと深い意味があるような気がした。しかし、それを教えてくれるものがいないし、だからといって尋ねて良いものか分からなかった。 「ようやっと、この宮も時めいて参りましょう。きっと王母(おうぼ)さまも、お喜びになられるでしょうな」  聞いたことがない名前が出たので、三娘は嬉しそうに話した侍女へ目をやった。それに気付いた侍女から満面の笑みを向けられる。 「この四季宮(しきぐう)は、今でこそ火龍さまがお住まいになられておりますが、それより以前は王母さまの離宮でございましたの。火龍さまが先代さまより王母さまの護衛を託されたとき、賜られたのです」  思いがけなく先代火龍の名が出たものだから、三娘は身を乗り出した。 「一つお尋ねしたいのですが、先代さまの墓所はいずこに?」  すると侍女は逡巡したあと、ゆっくりと口を開いた。他の侍女たちは、皆口を閉ざして顔を俯かせている。 「花嫁さま。先代さまの墓所は、ここから遠く離れた火焔の宮にございます」 「そうですか……」 「はい。もしも御参拝したいとお思いでしたら、本殿の奥にある霊廟へ御案内いたします」 「そのときはお願いしても?」 「ええ、勿論でございます。庭に咲く花を持って参りましょう。きっと先代さまもお喜びになりましょう」  先代火龍の話を切り出した途端顔を俯かせていた侍女達が、ほっとしたような顔をした。それが妙に気に掛かり、三娘はずっと気になっていたことを切り出した。 「あと、もうひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか?」  三娘は再び侍女に問いかけた。 「なんでございましょう。何なりとお尋ねくださいませ」 「先代さまが亡くなられたのは、いつ、でしょうか……」    遠慮がちに問いかけると、侍女の表情がみるみるうちに困ったようなものになった。 「申し訳ございません、花嫁さま。そのことについてはお答えできません……」 「えっ?」 「先代さまがお亡くなりになられたお話を、この宮で口にすることは固く禁じられているのです。ですからどうか、御容赦を……」  侍女はつらそうな表情で頭を下げた。その姿を目にして、三娘は疑念を抱かずにいられなかった。急に不安が襲いかかってきたものの、それを訴えられる相手がいない。そう思ったら、ますます孤独を感じずにはいられなかった。
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