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 通勤は、いつもは電車を使うので住宅街の裏道を歩くが、今日は出張の用があるので車で行く。すると、また違う景色を見ることになり、なにか新鮮な思いがする。信号待ちで止まっていると、桜の下を行く小学生の列が目に入った。皆ランドセルのほかに大きな手提げを持っている。 「新学期、始まったんだな」  呟くと、助手席の妻は一瞬間を置いて、そうだね、と微笑んだ。多分、俺がそんなものに気を留めると思わなくて、何の話か戸惑ったんだろう。 「自分たちもああだったのかな、なんて思うけど、もう思い出せないね」  外を見ながら彼女は言った。 「……そんなこと言うな」 「……どうかした?」 「いや、……」  思い出したくない記憶でも、無かったことには出来ない。彼女がそんなつもりで言ったのじゃないことは分かっていたが。 「……そんな風に言うと、俺たちずいぶん歳みたいじゃねぇかよ」  彼女は笑う。 「あなたは変わらない」 「最初から老けてただろうからな」 「そうじゃないけど、……でもあんまり変わらないけど、初めて会った頃はもう少しピリピリしてた?あたしが勝手に怖がってただけかもしれないけど」 「……そうかも知んねぇな」  籍を入れて一年経つ妻の眞里絵は今年で三七歳になる。八つ下だが、同僚としての付き合いは長い。  彼女が新卒で入社してきてから七年は横浜支社で一緒に、それから俺が東京の本社に行って、五年後に戻って――――。  信号は変わり、重そうな荷物を持った小学生の列を、風に巻き上げられる桜の花弁を、目を留める間もなく置き去りにして行く。利便のために乗り回している反面で、人の心の動きに対して車は速過ぎると、時々思う。  駅は混んでいるので近くの道で車を停め 「ここでいいか」 と声をかけた。今は俺はまた本社に居て、彼女は変わらず横浜に居る。出勤の時間は大して変わらないので、いつも同じに出て、車の時は駅まで送るのが常になっている。シートベルトを外して彼女はこちらに顔を向ける。 「ありがとう。じゃ、行ってきます」 「気を付けてな」 「あなたも」  車を降りて、ドアを閉める前に思い出したように彼女は手を伸ばす。  向けられた華奢な手のひらに軽く重ねてやると 「じゃあね」 と彼女は行く。  白いスプリングコートの背中を見送りながら、すぐには車を出さずに俺はしばらくそこに居た。  少しの間離れるだけなのに、今見た背中が最後になったら、と思う。ずっと、長い間見続けてきたというのに時折遠く感じる、その背中が。
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