桜と虚

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「へえ、それで駅のホームに入った途端に列車がきたと」 「はい! 列車の時間を気にしてくれたのかもしれません。あのお爺さん、気難しそうだけどいい人です。お陰で予定の時間に朝市に着けました」  幻橋庵に戻った私は、両手に持ったエコバックを「戦利品です!」と掲げて見せた。その量に驚いたようだけれど、右門(うもん)さんは「よかったね」と笑ってくれる。  彼はこのお店の主の一人。年齢は分からないけれど、見た目から二十代じゃないかと私は思っている。穏やかな目元と微笑を浮かべた口元が優し気な印象を与える、端正な顔立ちの男の人。服装は藍色の和風シャツ、黒のズボンに辛子色のエプロンを付けている。 「それにしても、随分買い込んだね……」 「い、言われてみれば」  戦利品をカウンターに並べてみるけれど、落ち着くと何だか恥ずかしくなってきた。  幻橋庵の最寄り駅から数駅先には広場を持つ駅があり、そこでは毎月朝市が開催される。野菜や果物が主だけれど、パンやお菓子、お惣菜などを扱うお店もあり、中には朝市限定の特別価格で売っているものもあるのだ。  私の目的は人気店のシフォンケーキ。お店で買う時と比べると種類は減るものの、定番商品がお安く手に入る。これを逃す手はないだろう。  かといって開催時間前に到着するのは張り切りすぎたかもしれないけれど……好きなものが品切れになってしまうと切ないし。食い意地が張ってる訳じゃありませんとも。  そう心の中で言い訳を重ねながら、並べたシフォンケーキは……なんと12個もあった。その他にもパンや小瓶に入ったジャム、衝動的に買ってしまった春キャベツなどがある。 「えーと……買いすぎ、ですね……」  カウンターに並ぶそれらを眺め、自分で呆れてしまう。 「シフォンケーキは冷凍すれば持つと思うよ。それ以外は食べきれるし、春キャベツもお店で使えるから大丈夫」 「うう、すいません」 「謝らないで。そもそも左門がお願いしたのが発端だからね」  右門さんの優しさがちょっぴり心に突き刺さる。左門さんにお願いされたのをいいことに、いつもより多めに買ってきちゃいました! なんて言えない。  ちなみに左門さんというのは、ここのもう一人の店主。調理担当の彼は新しいスイーツをメニューに加えたいらしく、どんな味のシフォンケーキがあるのか買ってきて欲しいと頼まれたのだ。
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