第145話 三千世界

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第145話 三千世界

 きみの湯があった場所は綺麗に更地となっていた。  ぱらぱらと塵が降りかかり、土煙が治まるにつれて女性の姿が浮かび上がってくる。身に付けたスーツとセミフレアスカートはぼろぼろで、左手に高島を抱えている。突き出した右手は根元から無くなっているが、血が吹き出ることも、苦痛に顔を歪めることもない。背後には稲田三姉妹と神尾勝樹だ。高島だけでなく他の者も助けたらしい。警察官や消防士、周辺の住民も、なんとか逃げおおせていたようだ。  一方、外法童子はというと、爆発に巻き込まれながらも平然とそこに立っていた。きりきりきりと首を回し、見得を切るようにしている。ざんばら髪は乱れ、髪の奥に覗く両眼は黒々とした中に火をともしたよう。破れた着物の下から白無垢が透けていた。  白い毛に覆われた腕と丸太のような脚がぶるぶると震えると、ぎゅっと縮まって細くしなやかになった。ざんばら髪の下から溢れ出たのは、艶やかな漆黒の髪だ。並みの人間の倍はある体躯ながら、日本的な美人の姿である。だが、黒光りする両眼と黒髪の下から突き出る二本の角が、人でないことを示していた。  その目が高島の姿を捉え、猛然と飛びかかっていくと、割って入った女性ともども横薙ぎに吹き飛ばす。外法童子に見つめられ、身を硬くする三姉妹と勝樹だが、転がったままの高島がいった。 「おまえの(にえ)は、こちらだ」 「知っておる」  と、外法童子が身を翻した。「焼け跡で静かに眠りについていた私を、ようも起こしてくれたな。この狂おしい想い。どうしてくれよう」 「僕の悲願を果たしてくれさえすれば、喜んで、この身を捧げよう。その後は、眠ろうが何だろうが好きにすればいいさ」 「御前の悲願を果たせだと。なぜ私がそんなことをしなければならん。地べたに這いつくばって、良い様よの。このまま踏み殺してくれようか」 「そうは行かないさ。三千世界の(からす)が証人であるからには」  外法童子が纏う黒い着物がぶくぶくと泡を吹き、抜け出るように現れたのは、不自然なほど真っ黒な烏である。八咫烏(やたがらす)とも呼ばれようか、三本脚の異形の烏が大きく羽を広げてみせた。 「ちっ、起請文(きしょうもん)か。面倒な真似を」 「護神にして鬼神、奪い取り与えぬ者。橋姫よ、外法童子として我が命に服せ。三千世界の烏が証人であれば。悲願なりし時は、我が身も心も全て喰らい尽くすが良い」 「言うたな。その願い、承知した。御前が求める縁を音なしから奪い取ってやろう。懐かしや、飢えて飽きぬ者か。与えぬゆえに満ち足りぬ者よ。来よる、来よるぞ。見えず、触れず、聞けず。ゆえに音なし。飢えに飢えたものの気配だけが……」  と、その顔半分が喰われて消えた。噛みちぎる音も咀嚼音もなく突然に。ぐらりとした外法童子だが、残った顔で、にぃと笑ってみせた。
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