第166話 図書館幽霊

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第166話 図書館幽霊

 僕は幽霊を信じている。  正確にいうと、目に見えなくても存在するものは確かにあると信じている。その方が面白いし、実際、人間には見えない光や音があるじゃないか。でも、そのことを話すと変な目で見られるか笑われるかだ。だから、口には出さないようにしてきた。  そんな折、図書館に幽霊が出るという噂を聞いた。周りに合わせて笑って聞いていたが、本当は真偽を確かめたくて仕方なかった。これまで幽霊を見たことはない。それでも、いや、だからこそ身近な幽霊話に興味を惹かれた。  大学に入ってからできた友人というか、ゆるいグループの連中に、幽霊を捕まえに行こうぜと冗談めかして誘い、図書館へ行った。にやにやと馬鹿な思いつきを楽しんでいる振りをして、その実、僕は本気で何かを期待していた。そうしたら、本当に……。  閲覧用の机に分厚い本が何冊も置いてあった。近くには誰もおらず、図書館内は静かで、しんとした空気が重い。エアコンも効いているが、空気の流れは足元をねぶるかどうか、その程度だ。それなのに、机上の本が、ぺらり、ぺらりと誰かが読んでいるかのようにめくれていく。思わず、あっ、と声をあげると、その動きは止まった。  どうやら、それを見たのは僕だけだったらしい。他の連中は誰も知らないという。最初は冗談と思って面白がっていたが、あまりに真剣な僕の様子に、やがて警戒するような、頭のおかしな人間を見るような目に変わっていった。  孤立した僕は、周囲を見回して他に見た人がいないか探してみた。すると心配そうにこちらを見ている学生と目があった。何かの講義で一緒になったことがある。神尾とかいっただろうか。  えっと、神尾だったっけ? あそこの本、勝手にページがめくれてたよね。見なかった?  そう聞くと彼は、いや、風じゃないかなどという。やりとりを見守っていた連中も、エアコンの風だろと面倒な話を終わらせようとする。  食い下がろうとする僕に止めを刺したのは神尾の一言だ。俺が読んでた本なんだけど、別におかしなことはなかったよと。本を借りて出て行く神尾の後ろ姿を見送って、グループの連中から距離を取られている雰囲気を感じながら僕も図書館を出た。  図書館幽霊の噂は、その後も続いていた。曰く、本好きな少女の幽霊である。曰く、孤独の中で死んだ少女の幽霊である。曰く、いじめを苦にして自殺した少女の幽霊である。そもそも大学の図書館に少女の幽霊というのはどうなのか。ただのオカルト浪漫だ。  聞こえてくる噂では、本が宙を飛んでいたとか、誰もいないのに何かの気配がする、あるいは読んでいる本のページを押さえられてしまうとか。怖さを感じさせる話ではなく、ただ目に見えない本好きな誰かがいると思わせる。その誰か、あるいは何かに会いたくて、毎日、図書館へ通った。閲覧用の机に座って、本を読みながら待つ。何を? 何かが起きるのをだ。  図書館通いを続ける僕は、何となく納まっていたグループから締め出され、笑い者になっていた。  そんなある日のこと。  元いたグループの連中が、連れ立って図書館へやってきた。もちろん、図書館幽霊を探しにきたわけじゃない。いるわけのない幽霊を求めて彷徨(さまよ)う愚かな僕を嗤うためにだ。だが、相手にしないでいる僕に腹を立てたのか、グループの一人、誰だったか名前もうろ覚えだが、そいつが僕のノートを取り上げて勝手に広げた。自分の顔が、かっと赤くなるのがわかった。そこには、これまで聞いた噂や、自分が想像した少女について書いてあった。  案の定、連中は大爆笑だ。子供っぽいとか、バカみたいとか、妄想もほどほどにしとけ、なんて感想が飛び交い、僕は顔も上げられない。ところが、いつから見ていたのか、やめてやれよと神尾が声をかけてきた。対して、連中は、  でもさ、こんなバカみたいなこと書いてるんだぜ。幽霊なんているわけないじゃん。 と応じて、ひらひらとノートを振ってみせるが、不意に、それが宙に浮かんだ。さらにボールペンが飛び、さらさらと何事か書きつける。  あんぐりと口を開けて見ていた連中の頭の上からばさりと落ちたノートには流麗な文字で、いますよ、とだけ書いてあった。その日、僕のノートには図書館幽霊の言葉が記された。  からかっていた連中も神尾も、あたふたとその場を離れ、その日はそれ以上何事も起こらなかった。  翌日から、いままで以上に熱心に図書館へ通うようになった。ひと月ほどが過ぎ、夏休みに入ったが、一向に何も起こらない。それでも僕は、もう一度だけでもボールペンが動くのを見たくて通い続けた。すると、またある日のこと。一人でノートと睨めっこしていた時、躊躇(ためら)いがちにボールペンが動き出し、  これで最後です。隠り世のものと関わりを持とうとしてはいけません。もう二度と書きません。図書館へも来てはなりません。 と、それだけ記すと、ぱたりと倒れた。周囲を見回したが、そこには誰もおらず、夏休みの図書館独特の静かで疲れたような空気がゆっくりと対流していた。  流麗な文字に優しさと真摯さを感じて、その言葉通り、僕は図書館を避けるようになった。煙草を吸って空を見上げる度に、そのことを思い出しながら。  しかし、秋に入ったころ、どうしても図書館へ行かなければならなくなった。当たり前の話だが、大学の図書館は幽霊に会いに行く場所じゃない。調べ物をしたり、論文を読んだり、学術書の貸し出しを受けるための場所なのだから。  久しぶりの図書館は妙に懐かしく、気が付けば閲覧用の机に座っていた。分厚い専門書を広げてノートを取っていると、すっとボールペンを抜き取られた。顔を上げても誰もいない。ボールペンが走り出し、勝手に文字を記し始める。約束を破った僕に怒っているのか。そう思ったけれど違った。ボールペンは、  どうして来てくれなかったのですか。本当は私も会いたいのです。貴方と話がしたいのに。 と記してくれた。僕が有頂天になったのは想像の通りである。  可愛い女の子と文通でもしているような、そんな気分だった。自分のことを書き、本のことを書き、家族や友人のことを書いた。その度に、愛らしい、あるいは優しい言葉を返してくれた。幽霊になった理由や名前は教えてくれなかったけれど、僕は勝手に図書館幽霊のことを女の子と思ってやりとりを続けた。  気付くと閉館時間になっていた。  それからは、毎日、図書館通いだ。きっと図書館の君に恋をしていたのだろう。見えない彼女と、日々、ノートを通じてやりとりをして。だから、それは必然のことだったけれど、僕は、会いたいと書いた。無理だと書かれても、何としても会いたいと。じゃあ、と彼女が答える。  じゃあ、書庫に隠れて、深夜を待ってもらえますか。少しだけ、姿を見せましょう。  その言葉を受けて、早速その日の夜のことだ。僕は深夜の図書館で彼女を待った。どうやって現れるのかわからないまま、ノートを広げて待つ。深夜0時、昨日と今日、今日と昨日の狭間の時間。どこにもあり、どこにもないその時間に記されたのは、  会いに来たよ との文字だ。ざわつくような文字の震えは何を意味するのだろう。さらに、  ノートを燃やして と記された。指示されるまま、ノートに火をつけた。すると、ごうと炎が燃え上がり、室内に煙と哄笑が立ち込めた。悪意ある笑い声が響く。浮かび上がったノートが炎を吐きながら笑う。  書庫のドアを開けて出ようとしても、鍵をかけられたかのように全く動かない。ノートから伸びた炎がドアに文字を焼き付ける。  ど、こ、へ、い、く、の?  そして、高まる笑い声が炎とともに部屋中を埋め尽くした。と、へたり込んで恐怖に涙する僕の背後で、分厚いドアが断ち切られていた。鋭利な刃物で斬り捨てられたように。  倒れたドアの半身が、ばたんと音を立てる。  続けて、宙に浮かんだノートも斬り裂かれ、細かな紙片となって飛び散った。炎が掻き消え、哄笑が失せ、書庫が闇に包まれる瞬間、ふっと稲妻柄の着物が見えた。静寂の中、ころんと音を立てて転がったボールペンが浮かび上がり、さらさらと床に書きつけられたのは、優しく流麗な文字だ。  私のせいで、悪いものと関わりを持たせてしまったようです。ごめんなさい。  その文字こそが、嗤われていた僕を救ってくれた文字に違いなかった。どこかへ去って行こうとする気配に向かって、会いたい! と叫んでいた。すると、もう一度、ボールペンが動いた。  ごめんなさい。会えません。生まれ変わったら、いつか。  せめて名前を! と僕の叫び声が響き、それは躊躇(ためら)いがちに、佳乃と記した。去り行く気配に向かって、もしいつか僕に子供が生まれて、女の子だったら、佳乃と名付けると伝えた。ボールペンはもう動かなかったけれど、半分だけ残ったドアがすっと開き、吸い込まれるような風とともに、ありがとうと軽やかな声が聞こえたようだった。  図書館幽霊には新たな噂が付け加えられた。書庫の床のどこかにその名前が記されており、どれだけ磨こうと、決して消えないと。
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