第3話 温州蜜柑

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第3話 温州蜜柑

 安アパートに越してきた初日から、くまのマスコット相手に喚いているところを人に見られた五郎が肩を落として溜息をついていると、そのマスコットがけたけたと笑っていう。 「ええやないか。どうせ、わての喋りはおまんにしか聞こえへんて」 「だから変な奴だと思われるんだよ……」  五郎は、恨めしげにマスコットを見た。こいつの名前は温州蜜柑(うんしゅうみかん)だ。  愛らしい、くまのマスコットの格好をしているが、本当は、まだらに鱗や毛が生えた奇妙な蟲のような姿をしている。自分のことを神尾家の式霊などと言っているが、本当は何であるか知れたものじゃない。  蜜柑のダンボール箱に住んでいるので、蜜柑、蜜柑と呼んでいたら、せめて姓をくれという。そこで、安易に温州蜜柑とした。  それ、ただの蜜柑の正式名やんと言いながらも気に入ったらしく、姓は温州、名は蜜柑などと嬉しそうにしていた。名無しのこいつは呼び名があるだけで嬉しいらしい。しかし、 「なぜ、後生大事に引越し先へ蜜柑箱を持ち歩かないとならんのだ」   「おまんが蜜柑箱に移しよったんやろが。明治以降、ぬくぬくと暮らしてきたわての素敵な箱を壊しよってからに」  そうなのだ。まだ子供の頃、亡くなった祖父母の屋敷を整理していた時、どこからか出てきた綺麗な箱を壊してしまい、中から出てきたのが見たこともない奇妙な蟲だった。  特に悪さもしなかったが、箱を寄越せ、箱を寄越せとうるさいから、蜜柑が入っていたダンボール箱をくれてやった。なんやこれ、こんな下賎な箱に住めるかいなどと言っていたが、結構しっくりきたらしい。中に入っていたくまのマスコットも気に入って、それに憑いて出たのが今の姿というわけ。以来、うるさくもあり多少は楽しくもある腐れ縁となった。  これまでも蜜柑と喋っていて変に思われることはあったが、引っ越し初日にやらかすとは思わなかった。我ながら先が思いやられる。
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