第4話 魔法の粉

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第4話 魔法の粉

 引っ越し初日は何かと落ち着かないものだ。文化住宅という名の貧乏アパートで、神尾五郎は、ばたばたと部屋を片付けていた。  それを横目に、流しの縁にちょこんと腰掛け、湯呑みを啜る小さな影。五郎に取り憑く自称式霊だか神様、その名を温州蜜柑(うんしゅうみかん)という。口元に湯呑みを近付けると、すぅっと中身が減っていくのだが、その小さな体のどこへ入っていくのやら。 「おい、五郎。そろそろ飯を食え、飯を。体は大事にせんとあかんで。おまん一人の体とちゃう。寄生しとる、いや、取り憑いとるわてのことも考えてや」 「ぽろっと本音が出てるぞ」 「まあまあ、ほんで今日は何にするんや。引っ越し祝いに、ぱあっと外食でも行くんか?」 「外食だと?」  五郎の目が鋭く光り、あ、なんか変なスイッチ押してもうたと思う蜜柑を睨みつけた。 「馬鹿を言え! 一度、外食しようものなら、我が家のエンゲル係数がバブル並みに跳ね上がるわ! 食費は千円で一週間! こらぁビタ一文まかりまへんな」 「そうかそうか。って、千円! 一週間! ご、五郎はん、さすがにそれは無理がありまっせ。言葉遣いも、えせ関西弁になっとるし」 「いや、いける。いけるはずや。実家から米だけは送ってくる。米を食ってさえいれば死ぬことはない! と思う」 「と思う、てなんや。自信あらへんのやないか。あかんあかん、米だけでは死ぬで、たぶん。いろんな栄養とってぇな」 「今日だけ今日だけ。明日からは、ごはん、味噌汁、肉、野菜の四色法則で、しっかり食べるから」 「四色法則て。まあ、ええけど。ほんで、今日の晩飯は何にするん?」 「ふっ、今日はパンケーキだ」 「おお、シャレオツやんか」 「その言葉自体がオシャレじゃないが、まあいい。特別に、ちょっと味見させてやってもいいぞ」 「おお、豪気やな。いっつも神様なんぞに食わせるもんはないって、水しかくれへんのに」  そう、蜜柑が啜っていたのも、ただのカルキ臭い水道水である。それだけに、パンケーキの出来上がりをわくわくして待つ温州蜜柑だった。  待つことしばし、出てきたパンケーキは、何やら予想と違ってぺったんこ。バターも蜂蜜も生クリームも何もない。だが、すべては食べてみての話、そう思って一口食べた蜜柑が、フォークを取り落とした。 「なんなん、これ? ちゃう、ちゃうで、これ。パンケーキちゃうで」 「お客さん、うちの料理に不満でも?」 「なにを寸劇やっとんねん。おま、これ、どうやって作ったんや」 「どうって。小麦粉にカルキ水を入れて……」 「カルキ水て! 往生際悪いな。普通に水道水て言わんかい」 「小麦粉と水道水を混ぜて、焼いたら、できる」 「できる、とちゃうわ。できてへんがな。砂糖は? 卵は? 牛乳は? 蜂蜜は? バターは? パンケーキの要素ないやんか」 「ちっ、海原雄山並みにうるさいやつ」 「あほか、こいつ。こんなもん雄山に食わせてみろ。こ、これは、そこはかとないカルキ臭が小麦粉の風味を引き立て、素材の魂を引き出している! とか言うたら、もっとらしいやんか。って、ちゃうわ! これのどこがパンケーキやねん?」 「うるさいなぁ。いいか、この貧乏パンケーキはな、ちょっと固かったり、べちゃっとしてたり、不味かったりする。だが、それらの点を除けば、パンケーキそのものなんだゾ☆」 「なにが、なんだゾ☆や。そのへん除いたら、何も残らん、ただただ難儀なもんやんけ」 「へっ、いいんだよ。腹がふくれりゃ」 「ああ、やさぐれてもうとる。おまん、死ぬで。こんな食生活を続けとったら間違いなく死ぬ。あかんて。死んだら運気吸い取れへんやん」 「そう思うなら俺の運気返せよ。還付金を寄越せ、こら」 「……まあ、腹がふくれたらええんとちゃう。まだ若いで、そう簡単には死なへんわ」 「適当なやつめ。んじゃあ、お腹もくちくなったところで、銭湯デビューと洒落込むか」  銭湯デビューの時点でシャレオツとちゃうでと思いながら、ツッコミ疲れて黙り込む蜜柑だった。
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