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プロローグ
「おっそーい! 早くご飯!」
「ご、ごめんなさい……」
家のドアを開けてすぐのところで恵が仁王立ちしていた。罵声を浴びせ、光樹に飯を作れとせがんだ。
せがむという生易しいものではない。叱咤ではなく激昂。額には青い筋が浮かび上がり、今にも拳が飛んできそうな剣幕だ。
いつもとは少し違う。こういう場合、口調はもっと優しく表情も柔らかい。今までならば「ちょっと、早くご飯作ってよー」くらいだった。だからそういう想像しかしていなかった。それが今日に限っては怒りを露わにしていた。けれどそこまで腹が減っているようにも見えない。
早く帰宅した方が夕食を作る。これは最初に決めたルールだった。だから今日は光樹が夕食を作らなければいけない日。ノー残業デーで早く帰れたのに食材を買い忘れた。ここまで怒ることもないのにと思いながら、性格上文句も言えなかった。
大きなビニール袋をガサガサと鳴らしながら室内へと入る。そして疲れを癒やすことなくキッチンへ。当然、食事を作るためだ。恵のためだというのに、横を通ると彼女は迷惑そうに眉を潜めた。
「今日はなに?」
「チンジャオロースと卵スープ。レタスとトマトとキュウリのサラダかな」
「そうかそうか、私もちょうど中華料理を食べたいと思っていたところだ。五分で頼む」
「無理だから……いくらタケノコが水煮だからってそんなにすぐにはできないよ」
「うるせー、手を動かせよ」
「じゃあなんで話しかけるの……」
彼女は「ふんっ」と鼻を鳴らしてリビングへと戻っていった。
死んだ両親が残した一軒家。表札の「伏瀬」の文字は色あせている。この家ができてからニ十年、両親は八年前に死んだ。その時光樹は二十歳だったので、当時の悲しみは相当なものだった。従姉妹や親戚に助けられながらも葬儀を済ませ、なんとか悲しみからも立ち上がった。今でも思い出して涙することもあるが、数年前に比べればまだましになった。
本来は光樹一人暮らしなのだが、今は恵という女性と一緒に暮らしている。
「おーい! まだかー!」
「まだ一分も経ってないから!」
今日も彼女の横柄な性格と天真爛漫さに辟易しながら料理を作る。まさに、彼女をマッサージする機械、料理を作る機械だった。
毎日のことで慣れてしまったが、光樹は彼女の尻に敷かれていた。
が、なぜか悪い気はしなかった。
本来の彼女は気遣いができる。誰になにを言われるでもなく行動し、見返りを求めるようなこともない。時折「褒めたっていいだろう」や「跪いて礼を言え」と言うことはあるが、そのすべてが冗談であると光輝はわかっていた。楽しく会話をするための、ちょっとしたスパイスを自ら作り出しているのだ、と。
だが、よくわからないタイミングで怒ることもあった。そう、たとえば今日のような状況だ。
「もうちょっと手加減して欲しいな……」
見た目は希代の美人だ。しかし性格はとても難しく、喜怒哀楽がすぐ表に出る。ときにはどこかに行ってほしいとそう思うことさえあった。そう思うが、どこかに行ったらそれはそれで寂しいのだろうとも思う。光輝と恵はお互いに面倒な性格で、それを互いにわかっていた。
そんな彼は二十八歳。不幸ばかりを経験してきた、その辺にいるしがない会社員である。
彼と彼女が出会い、そこから彼の新たな人生が始まった。幸か不幸かと言われれば間違いなく前者だ。けれどきっと彼は苦い顔をするだろう。
恥ずかしさが邪魔をして本心が言えないからだ。
それにしても今日は機嫌が悪すぎるような気がしてならなかった。
なにかしただろうかと自分の行いを振り返ってみた。
朝起きてから会社に行くまでは普通だった。むしろ嬉しそうだった。会社から連絡をしたときも、どこか浮足立っている印象を受けた。
それが帰ってきたらこれだ。確かに食材を買い忘れたことに関しては文句は言えないだろう。が、これはあまりにもひどすぎるのではないか。
「なにか、なにか。なにをしたんだろう」
蛍光灯を見て、恵を見て、シンクを見て、恵を見た。彼女の横顔は怒っていても美しかった。
いや、もしかしたら逆なのではないか。
そう思い始めて、一つだけ思い当たった。恵が怒る理由がわかってしまった。
「なるほど、そういう……」
「独り言がうるさいぞ! 料理に集中しろ!」
「独り言くらい言わせてよ!」
ケンカのようなやり取りの中で、光輝は一人微笑んでいた。笑みを隠しきれない。緩んだ頬を引き締めようとしてもできなかった。
これからの恵の反応を予想してしまったから。
驚かしてやろうと思った。嬉しそうな顔が見たかった。ただ、それだけだった。
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