雨が上がれば

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雨が上がれば

雨は好き? そんな風に、一度は聞かれた事があるかもしれない。 まだ傘を差すことや、長靴を履くのが楽しかった頃。 セーラー服の赤いリボンを、風に靡かせていた頃に。 だけど大人と呼ばれる年齢になった今。 私の答えは――― ◇◆◇ ぽつぽつと突然小さく窓を弾いた音に気付いてふと外を見ると、暗く重たげな雲が夜空を隠し、その上細かな雫を吐き出していた。 雨―――やっぱり、降ってきちゃったか。 上書き保存したばかりのデータを閉じながら、硝子越しの雨に大きめの溜息をつく。 凝った肩が少し痛みを訴えている。終業時間を過ぎてから、ほぼぶっ通しでパソコンを打ち続けていたから、身体が固まってしまったみたいだ。 今日は帰りにマッサージにでも寄っていこうかな、なんてまだ一応二十代なのにそんなおじさんめいた考えが浮かぶ。 と言ってもまあ……もうアラサーなんだけど。 首を左右に傾けつつ、少しでも楽になれたらと肩回りを解したけれど、さほど変わらなかったので再び小さく息が零れた。 見慣れた、というより見飽きたに近いオフィスを見渡してから、一つだけ明かりの点いている自分のデスクで、私は帰宅する準備を始めた。 誰もいない部屋は静かで、十分仕事は捗ったけど、左腕の時計はもう八時半を過ぎている。 帰ってご飯作るには、ちょっとしんどい時間かな、と思い帰り道にあるコンビニに立ち寄る事を決めながら、オフィスを出て鍵を掛けた。 傘持ってきて無いし、どうしようかなー……。 エレベーターの降りていく鈍い音を聞きながら、朝の自分の判断に少しだけ後悔する。 今日はここまで遅くなると思っていなかったから、天気予報も見ずに出てきてしまった。 朝はそこそこ晴れていたし、定時帰りなら大丈夫だと思ったのに。 まさか、残業になると思わなかったからなー……。 ぎりぎりまですみません、と頭を下げていた『彼』の事を思い出して、苦笑が零れた。 今日私が残業でこなしていた仕事は、本来は私の仕事では無かった。まあ指導役という意味では私にも十分責任はあるのだけど、任されていたのは違う人間だった。 私の後輩で、社内ペアレント相手である青年、上村俊貴(うえむらとしき)。 三年前に入社した彼は、他の新入社員と同じく一年間他部署を順番に回され、最終的に私が所属する課に配属となった。 私が勤務している会社では、社員は皆配属後に一人一人先輩社員がつけられるペアレント制度を適用している。 一人の新人に対し、一人の先輩社員がつくというもので、私が組む事になったのが上村君というわけだ。 ペアレント相手が彼だと決まった時は、他の女性社員達からまあ冷やかされたものだった。 私のタイプでは無いけれど、綺麗な顔立ちをしていた彼は、先輩女性社員から中々の人気があるのだ。 艶やかな黒髪に大きく優し気な目元、それでいて彫りの深い顔立ちは、日本人の静の美と異国人の空気が感じられる。本人曰く、お祖父さんが北欧系の外国人らしい。 クオーター、というやつなんだろう。 「でも人に仕事押し付けるような子じゃ、ないのよね……」 階下へ下がるエレベーターの中、確かめるみたいに呟く。 私が上村君のペアレントになって結構な時間が経っているが、彼は見かけ倒しでは無く、正直言って有能だった。一度言った事は確実にこなしてくれるし、ミスもほぼ無い。教え易く、飲み込みが早いから、当初予定していたのよりも多くの仕事を任せている位だ。 私は上村君が初めてのペアレント相手でもあったから、本音では仕事の出来る子が当たってくれて幸運だったなと思っていた。有能で真面目だからこそ、関わりも最低限で済むからだ。 ただでさえ、この制度には私は複雑な思いがあるから……余計にそう考えてしまうのかもしれない。 ともあれ、初のペアレントも順調に進められている―――と思っていたのだけど。 今日だけは少し彼の様子が違っていた。 それは定時直前になって飛び込みで入った一本の連絡。 担当は上村君。配属されて二年目の彼には既に幾つか仕事を任せていて、その内の一つの緊急連絡だった。 こういう事はよくあるので、普段の彼なら少し時間を過ぎてしまっても全て終わらせてから帰っていた。 だけど、今日は違った。その連絡が来てすぐに、彼は私の元に頭を下げに来たのだ。「どうしても外せない用事があるから、明日早朝出勤してやらせてほしい」と。 彼の監督は私の役目なので、内容を確認してみると、明日の朝やっても十分間に合う仕事ではあった。だから彼もそう言いに来たのだろうけど……しかし、依頼者が悪かった。 「芦屋(あしや)係長、気分屋だからなぁ」 チン、と小さく音がしてエレベーターが一階ロビーにつく。同時に吐き出したのは、私が残業してまで彼の仕事を引き受けた理由そのものだった。 気分屋の係長相手で無ければ、私も上村君に彼が言った通りでも大丈夫だと伝えてあげられた。でも相手が悪かったのだ。あの人相手だと、たとえ提出が明日の夕方になっていても突然変更されかねない。芦屋係長とは課も違うしほとんど関わる事が無いから、上村君は知らなくても仕方が無かった。 とりあえず事情を説明し、今回は私が処理する事にして、彼にはそのまま定時で上がってもらったけれど、上村君は最後まで頭を下げながら申し訳なさそうにしていた。 私自身は、別に彼の後処理をする事に不満は無い。ペアレント制度とは元々後輩のサポートをする事も含んでいる。 だから、気にしなくていいよと言ったのだけど―――― 「ちょっと、変だったわよね。あの子」 誰もいない玄関ロビーを歩きながら、去り際に見た上村君の表情を思い出して呟いた。黒い頭を下げながら、眉尻をこれでもかと下げつつ、申し訳無さの中にどこか切羽詰まった感じがあった。 だから少し、気になってはいたのだけど…… 「藤(ふじ)さんっ!」 いない筈の声に名を呼ばれて、思わず振り返ると、灯りも落ちているロビーの中心に、今思い出していたばかりの彼が立っていた。 「上村君?貴方、帰ったんじゃ――」 どうしても外せない用事があるからと、初めて私に仕事の後始末を頼んで帰社した筈の彼は、なぜかまた会社に戻って来ていたらしい。 というか、戻ったなら手伝ってくれたら良かったのに――― 思いのほか長い残業になってしまった事と、ここ最近の疲れでそんな文句を内心思っていたら、彼の様子が普段と違う事に気が付いた。 降り出した雨に打たれたのか、黒い毛先が少し濡れていて、戻ったというより、慌てて走り込んできたという感じだ。それに、妙に表情も暗い。 ロビーの灯りは落とされているとはいえ、最低限の光量はある。だけどどこか……上村君の顔にはそういったのとは違う陰を感じた。 ―――? 「上村君?」 呼びかけてみるけれど、反応が無い。 いつもの彼とは違う明らかにおかしい様子に、何かあったのかと心配になった。 そう言えば、今日のお昼当たりからちょっと変ではあったけど……それにしたって、今の彼は異常だ。私の方を向いているのに目の焦点が合っていないし、髪もスーツも濡れている。 「……見合い」 「え?」 彼の口から出た言葉が理解出来なくて、一瞬戸惑う。 「見合いするって、本当ですか」 上村君はどこか陰のある表情のまま、ぽつりと呟くように言った。 「どうしてそれを……」 それは、今日の朝出社した時に上司から持ちかけられた話だった。 普段通りデスクに座っていた私に、入社当時私とペアレントを組んでくれていた檜渡(ひわたり)課長から呼び出され、その話をされたのだ。 何でも、先日お伺いしたお客様のお宅が、取引先でもある「高倉メディカルグループ」の取締役宅だったらしく、訪問した際に私達の対応をしてくれたのが高倉社長の息子さんだったという話だった。 それでどうして私に話が来るのか甚だ疑問だったけれど、あの数分のやり取りでどうやらその息子さんが私を気に入ってくれたらしい。配置薬の補充に行っただけで、別にこれといって会話もしなかった筈なのに。 ルート営業は常に二人一組で行動するので、その場には私以外にももう一人居た。あの状況でどうしてそう思ったのかは判らない。高倉の長男という事はお坊ちゃんなんだろうけど、恐らく気まぐれだろう。 私はそう思って、会うだけなら、と以前檜渡課長とペアレントを組んでいた頃の恩返しも含めてその話を受けたのだ。 あくまで会うだけ、それで恩ある上司の名目が保たれるのなら、一日くらい窮屈な着物を着て話を合わせるくらいはいいかと至極簡単に考えていた。 だけど、どうしてか上村君には気になる話だったらしい。 「色々あるのよ。この歳になるとね」 だって本当に、付き合いで会うだけだし。 相手方だって恐らくちょっとした気まぐれが働いただけで、本当に面と向かって私を見れば、面白みの無さに興味を無くすだろう。 ただそれだけの事なのに、どうして上村君にその事を責められる様に言われているのか、判らない。 「……俺、今日一日ずっと貴女の事を考えてました。見合いするって聞いて、もうわけわかんねえくらいぐちゃぐちゃで……っ!」 拳を握りしめ語り出した彼に、驚くよりも先に冷静な感情が芽生える。 私もかつて、彼と同じような想いを抱いた事があったからだ。 うちの会社で取られているペアレント制度は、各個人に指導役が付く事で一人一人を丁寧に育て上げられると言う利点がある傍ら、時間的にも精神的にも距離が近くなってしまう事がある。つまり、恋愛関係になってしまい易いのだ。なのでペアレントは絶対に独身者同士で組まされる事になっている。私が上村君と組んだ時に他の女性社員から羨ましがられたのは、そういう背景もあるからだった。 ……だから社内恋愛すごいし、それ故の結婚率も高いのよね。 うちの会社の社長自体、今の奥様とは職場で知り合ったのもあり、そういった事に寛容なのだろう。 もう、かなり昔……私も新人の頃、ペアレント相手である檜渡さんに特別な想いを抱いていた。 ただ彼には決まった人がいたから、その想いは告げる事無く終わりを迎えてしまったのだけど。 あの頃の切ない想いはもう無いけれど、あれほど人を好きになったのも初めてだったから、檜渡さん以降私の心に入り込んだ人はいなかった。 人は、苦しすぎる恋を経験した後は、殊更臆病になるのかもしれない。 誰かを好きになるのが恐かった。 叶わない願いを抱くくらいなら、初めから誰とも近しい関係になんてなりたくなかった。抱いた想いを捨てるには、もう年齢も重ねた私には辛すぎる。 だから何となく、上村君から向けられている好意にも私は知らぬふりを決め込んでいた。 「……一時の気の迷いよ。貴方のそれも。聞いた事あるでしょう?ペアレントって長い時間一緒にいるから、そうなり易いんだって」 私の言葉に、上村君の焦点が合わさり綺麗な彼の瞳が揺れる。 「それに、そんな事位で仕事に支障きたす様じゃ周りに迷惑よ。実際今日は私が貴方の後始末をつける事になった。好きだって言うなら、その位考えて欲しいわ」 若くて、未来ある彼に想われた事は正直嬉しかった。だけど、それを受け止めるには、私は年齢が離れすぎている。今から誰かを想うのだって、まだ前の恋が重すぎて動けそうに無い。 だから私はわざと、強めの口調で彼に言った。 「いい加減、学生気分はやめなさい。ここは、仕事をする場所よ」 視線だけは逃げたくなくて、彼の目を見返して突き放す言葉を告げた。 途端、上村君の表情が少しだけ歪む。 傷ついた彼の表情に、胸がぎゅっと痛くなる。だけど剥き出しでぶつけられた感情が、本音では少し恐かった。惹かれてしまうのが、恐かった。 「……っ俺が貴女を好きになったのは、ペアレントを組んだからじゃない!!」 「―――え?」 ぐっと拳を握り締めた上村君が叫ぶ。 硝子越しの雨の音が、広い玄関ロビーで彼の声に混じり響いた。。 上村君が声を荒げる姿を初めて目にして、私の瞳が大きく開く。彼はそんな私をじっと強い視線で見つめながら、苦しそうに口を開いた。 「七年前……っ、俺が十八の時、新人だった貴女が、檜渡課長と一緒に俺のばあちゃんちに来た事があったんです。配置薬の、ルート営業で」 「あ……」 上村君の言葉に、ふっと記憶が掘り起こされる。 彼の表情に、柔和に微笑む上品な女性の顔が重なった。 新人の頃、彼と同じ名字をした高齢のご婦人宅へ檜渡課長と訪問した事があった。 それは本当に入社したばかりの、ルート営業数日目の事だったと思う。 淡い灰色と白の混じり合う髪がとても似合う、貴婦人のような女性だった。 あの女性が……上村君の、お祖母様だった……? もう七年も前の事でも、彼のお祖母様については未だ記憶に残っている。 新人の私がもたついても微笑みながら待っていてくれて、物腰柔らかく、古き良き時代の貴族令嬢を彷彿とさせる女性だった。言われてみれば、確かに彼と印象が似ているように思う。 「……俺のばあちゃん話が長いから、薬の交換が終わった後もずっと話し続けてて……たぶんじいちゃんが亡くなったばっかだったから、寂しかったんだと思います。あの日はずっと藤さん達に話しかけてました。俺も大学で友達にかまけてて、葬式でしか会ってなかったんです。その日たまたま顔見せにいってただけで……でも、そこに藤さん達が来た。檜渡課長はやんわり帰りますって何度もばあちゃんに言ったけど、貴女はずっとにこにこしながら話を聞いてくれてて。帰り際にばあちゃんにまた来ますねって、またお話聞かせてくださいって、言ってくれたんです。ばあちゃん、すごい喜んでました」 堰を切ったように話し終えた後、言葉の末尾で上村君がほんの少し瞳を緩め微笑んだ。 どこか悲しげな表情に、今日の彼らしくない言動がパズルのようにはまって、私ははっと息を飲む。 「今日は……」 「ばあちゃん、亡くなったんです。今日。ずっと寝たきりが続いてて……俺も仕事終わってから毎日病院に行ってたんですけど、昼に連絡が来て」 「そう、だったの……」 何て言っていいか、わからなかった。 予想しなかったわけではないけれど、今思い出したばかりの人が、今日亡くなったのだと聞いては、簡単な言葉を返すわけにはいかなくて。 それに上村君の表情を見ていると、彼がどれだけお祖母様を大事に思っていたのかが強く伝わって、誤魔化すような言葉なんて思いつかなかった。 あの新人時代、上村君のお祖母様宅には数回訪問させてもらった。私一人で行ったときは、結構長い時間話し込んだりもして、私は彼女と過ごす穏やかな時間が、仕事を越えてとても 好きだったのだ。 だけどそれも、檜渡さんとのペアレントが解消されて、彼に失恋してからは、私は違う仕事を任されるようになり、上村君のお祖母様の所に行くことは無くなってしまった。 引き継ぎや、最後の挨拶はしたけれど、あの頃の私は砕けた心を治すのに必死で、ただ毎日の仕事をこなすだけで精一杯だった。今思えば本当に、不義理な事をしてしまったと思う。 ある程度気持ちを持ち直してから改めて会いに行く事も考えたけれど、それがずっと出来なくて、今になってしまった。彼女の所には、檜渡さんも一緒に行っていたから、どうしても思い出してしまって、辛かった。 「俺が今貴女と一緒に仕事してるって聞いた時、ばあちゃんすごく喜んでたんです。あのお嬢さんとなんて、良かったねって言って。毎日の様に、今日の藤さんは元気だったかって、俺に聞いてきたりもして。ばあちゃん、あの頃じいちゃんが亡くなって寂しかったのを、藤さんが埋めてくれてたって、言ってました」 「どうして……教えてくれなかったの?」 少しだけ、責めるような口調になってしまって、罪悪感にきゅっと指先を握り込んだ。 だって言って欲しかった。 私も彼女に会いたかった。そして謝りたかった。 未だにこの歳になっても心の整理が出来なくて、会いに行けなかったことを。 優しくしてくれた人に、謝りたかった。 仕事で出会ったのだとしても、新人時代に嫌なことがあっても乗り越えられたのは彼女のおかげだった。失敗をして落ち込んでも、訪問先で嫌な顔をされても、彼女のようなお客様が一人でもいるのだと思うだけで頑張れたから。 なのに……最低だわ。私。 こんなの八つ当たりよ。 上村君は肉親を亡くしたばかりなのに。 それなのにどうして、こんな最低な事を言っているんだろう。 不義理をした私に、彼が教える義務なんて無いのに。 だけど知っていたら、あんな突き放す言い方は決してしなかったのに、と狡い自分が言い訳をする。 彼とペアレントを組んでから二年。一定の距離は置いていたけれど、打ち明ける機会は何度でもあったはずなのにと、勝手に裏切られたみたいな気分になる。 私はそんなに、彼にとって言葉をかけにくいような人間だったのだろうかと、自ら線を引いていたくせに思う。 「ばあちゃんが……会ったのは数回だし、もうこんな状態だから、言わなくていいって言ったんです。もしも覚えていてもらえるなら、元気な姿で覚えていて欲しいからって。でも、俺はずっと貴女に話したかったんです。話がしたかったけど、その……檜渡さんとの話、聞いて。……近づき過ぎると、嫌がられるかと思って……」 上村君が顔を俯け言い出しにくそうに、痛みを堪えるように話してくれる。 その時私は、彼にも知られていたんだなと、今まで気付けなかった自分に呆れていた。 若かったあの頃、隠すのが下手だった私は、樋渡さん以外の人間に気持ちを知られていた。 だから彼に失恋した時は、周囲から哀れみの目で見られて居心地が悪かったものだ。 正直会社を辞めようかと思ったけれど、それすら檜渡さんの傍にいたいという面倒な未練に縫い止められてしまって、馬鹿な私は未だここに務め続けている。 苦く、痛い思い出だ。 私にとって、決して治らない深い傷。 「そう……そう、だったの。ごめんなさい。さっきの言葉は謝るわ。今日の上村君、お昼から様子が違ってたものね。そういう事だったの。私の事も……全部、知ってたんだ」 「……はい」 上村君の視線が私に戻る。 大きめの黒い瞳は真剣で、痛いほどに真っ直ぐだ。 私だって、この二年ペアレントとして、先輩として過ごしてきたのだ。 一定の距離感を置いていても、彼の実直さや誠実さは見てきている。彼は気遣ってくれていたのだろう。私の心に波が立たないように、平穏でいられるように、彼女を思い出すことで、私が檜渡さんと過ごした日々を思い起こすことのないように。 私が仕事として彼を見てきていたのとは少し違う意味で、彼は離れた場所から静かに見守ってくれていたのかもしれない。 仕事とは違う真摯な彼の表情を見ながら、そう思った。 「その、事情も説明しないで藤さんに仕事投げたりして、本当にすみませんでした。言わなかった事も、貴女の事情を聞いたのは偶然だったけど、こんな、急に告白したりして。だけど見合いするって聞いて、居ても立ってもいられなかったんです。どうしても、その前に言っておきたかった。貴女に、俺の気持ちを知って欲しかったんです」 「それで、今日ここに戻ってきたの……?だって今日は、お祖母様が亡くなった日でしょう、私なんかの所に来てる場合じゃ、ないじゃない……っ」 どうしてそこまでするのか、と意味を含めて彼に問う。 私にそんな価値なんて無いのに。 「ばあちゃん、俺の気持ち知ってるんです。だから大丈夫です。顔も、笑ってました。行ってこいって、言われた気がしたんです。ずっと、応援してくれてたから」 「っ……」 「藤さん、お願いします。俺にチャンスを下さい。七年前のあの日、俺は貴女に一目惚れしました。大学卒業して、やっと三年前に入社して貴女とこうして再会できた。なのに俺、ずっと貴女に言えませんでした。この二年なんて近くにいられたはずなのに。貴女に拒まれるのが、恐かったんです」 カツ、カツと、小さく音を響かせながら、上村君が私に向かって歩いてくる。 朝にも見た彼の濃いグレーのスーツには、より色濃い雨の模様がついていて、広い肩から胸までを深く覆い染めていた。 私の真正面、すぐ目の前に来た彼を顔を見上げる。 高い位置にある大きく黒い瞳に、揺らぐ強い意志が見えた気がした。 心が震える。 身体も。 なのに逃げたいとは、思わない。 「俺、貴女が好きです。ずっと好きでした。お願いです……見合いなんて、しないで下さい……っ」 「うえむら、くん」 両肩を、大きな手にぐっと掴まれて。 七年分の思いの丈をぶつけるみたいに、懇願されて。 痛ましげに歪む彼の表情から、目が離せない。 「卑怯なのはわかってます……っ、貴女が困るのも、だけど俺は、どうしようも無く、貴女が好きなんです……っ」 「っ」 動かなかった身体が、突然ぐいと引き寄せられて、私の重心がぐらりと揺れた。 どんっとぶつかったのは、固く厚い胸元で。 彼の性格と同じように、きっちりと整った結び目が、私の視界に映っていた。 「上村君……っ!」 咄嗟に彼の胸に両手をつく。だけどびくともしない身体は、いつの間にか太い腕で私を囲い、ぎゅうと強く抱き締めてくる。 「行かないで……これ以上、俺の手の届かない所に行かないでください。お願い、だから」 苦しみを吐き出すように、耳元で懇願されて、胸の奥がふるふると震えていた。 突然抱き締められた事が恐いわけでは無い。 ただ感情が大きく揺らいでいて、彼の声が心に染みこんで、硝子で出来た鈴が一斉に風に揺られて音を奏でるように、全ての感情が揺さぶられていた。 耳朶に、上村君の呼吸音と、外から硝子窓を打ち付ける雨の音が聞こえる。 スーツ越しに伝わる体温を感じながら、頭にふっと懐かしい雨の日が浮かぶ。 ……私の恋は、いつも雨の中で始まって、雨の中で終わっていた。 新人として檜渡さんとペアレントを組んだ頃、二人で営業先を回っていた私達に降り出した雨も、今日の雨と同じくらい強いものだった。 傘の無い私に、檜渡さんは自分のスーツのジャケットを脱いで頭に被せてくれた。 「大事な期待の星に、風邪ひかせたくないからな」と笑って。 あのスーツ越しに見た雨の中、私はあの人に恋をしたのだ。 彼に認めてもらいたくて、役に立ちたくて、仕事を頑張り続けた先。 いつか彼に告白できるような自分になれるようにと、夢見ていたあの日。 ペアレントを組んでから二年後、私は檜渡さんから結婚式の招待状を受け取った。 六月の挙式に、彼は「今日みたいに雨じゃなきゃいいんだけどな」とあの日と同じように笑っていた。 雨の日に始まった恋は、同じ雨の日に、呆気なく終わった。 そして今また、私はこうして雨の日に、心揺さぶられている。 上村君の言葉に、彼の感情に、熱に、抱かれて。 「……お見合い、の話なんだけど」 上村君に抱き締められたまま、ぽつりと呟けば、彼の大きな身体がびくりと動いた。 私は彼の腕の中、返事を待つこと無く続きを告げる。 「檜渡課長が、昔からお世話になってるクライアント先の人でね」 そこまで言ったら、身体を拘束している腕の力が強くなった。 それに、私は片手でぽんぽんと軽く合図をしながら、説明を続ける。 「会うだけ、って条件で話を受けたの。私も知ってる所だからっていうのもあったけど、檜渡さんが笑ってくれるなら、いいかなって……」 「……っ」 目尻に浮かんだ雫を、落とさないように上を向けば、悲しいのか痛いのか、複雑な表情を浮かべた上村君の顔があった。 それに申し訳なさを感じながら、私は彼の背に両手を回し、そっと広い背中を撫で擦る。 上村君の大きな黒い瞳が、より大きく瞠られて、思わずふっと微笑んだ。 溜まっていた雫が、頬にこぼれ落ちたのを感じた。 「そうやって、過去の恋の未練があるから、次に踏み出せないんだって、自分にずっと言い訳してたの。また同じ思いをするのが恐くて。恋をするのが、また激しく気持ちを揺さぶられるのが恐くて、逃げてた……ごめんね、上村君。貴方の気持ちに、私はちゃんと向き合ってこなかった」 彼の好意を知っていながら、ずっと見ない振りをしていた。 自分が惹かれていることに気付くのが恐くて。 また同じ思いをするのが恐くて。 過去の失恋を無理矢理引き摺り続けて逃げて八つ当たりしていた。 だけどもう、これも潮時なんだろう。 私の心は、あの雨の降る日から晴れた空へと出たがっていたのだから。 それに気付かせてくれたのは、彼だ。 大切な人が亡くなって、辛いはずなのに残した仕事の謝罪に来てくれて、恋というもの自体を遠ざけていた私に変化を与えないように、何も言わず見守り続けていてくれた上村君だ。 「謝らないで下さい……俺が勝手に貴女を好きになって、好きでい続けたんです。貴女が謝る必要なんて無いんです。むしろ、俺の方が……っ?」 まるで、好きになってごめんなさいとでも言い出しそうな彼の唇に、そっと人差し指を置いた。 「ごめん、じゃ間違いね。有り難う、上村君。私を好きになってくれて。今まで言わないでいてくれて。待っていてくれて」 そのままの格好で微笑みながら言えば、上村君の整った顔が、驚きに染まっていた。 「私ね、あんまり器用じゃ無いの。だからすごく引き摺るし、切り替えるのも上手くない。だからきっと、すぐには変われない。それでも、いい……?」 私の心はたぶん、あの雨の日からずっと止まったままだったんだろう。 だけど、人は停滞してはいられない。 降り続ける雨の中、ずっと立ってはいられないのだから。 晴れた場所へ踏み出す勇気をくれた人の唇から指先を離せば、泣き出しそうな顔で見つめ返された。 「っ……七年、待ちましたから。貴女が俺を見てくれるなら、きっといつまでだって待てる。だけど俺も、これから貴女が俺をもっと見てくれるように、好きになってもらえるようになりたい。そうできるようにします。だから、だから……っ!」 強く、そして優しく抱き締めてくれる腕の中、何度も相づちを打ちながら、泣きながら、私は心の中で降り続いていた雨に別れを告げた。 雨が上がれば。 この心に温かく灯った想いも、きっと前に踏み出す事が出来るだろう。 硝子窓を叩いていた雨は今は止み、地面には名残の水面が幾つも広がっていて。 それは鏡のように、晴れた雲の隙間に覗く星の夜空を映していた。 <終>
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