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 成が入院した。  見かけないと思っていたら、合同授業で一緒になった成のクラスの奴がそんな話をしていた。  その瞬間、ほんの少し心がざわついた。  そんな俺の表情を見たのか見ていないのかは分からないが、授業が終わって教室を出ようとしていると一人に声をかけられた。 「姫木」 「んー?」 「綾川の見舞い、行かなくていいのか?」 あー……、こいつは同じ小学校だったな。なんとなく俺たちの気まずさを知っているから、二人が幼なじみとは知らない皆には聞こえないように小声で話してくれた。  そんな気遣いも、正直、キツかったりする。 「まあ、そのうちな」 その場ではそう答えておいたが、結局成の病室を訪ねられぬまま、迷ったまま、随分と時間が経ってしまった。  夏休みはどこに遊びに行く、なんて計画で周りが浮かれ始める頃になった。家に帰り着き、すっかり夏服の制服を着るでもなく脱ぐでもないような状態で、観るともなくテレビの画面を眺めていると、背後の台所から母が話しかけてくる。 「成くんね、今度大きな病院に移るそうよ」 俺は母の方を振り向きはしなかった。母が成の話題を口にしたことに驚いた。小さいころあれほどべったりだった俺たちが、大きくなってから全く会話すらしていないことに、母親たちが気づいていないはずがなかった。だから姫木家ではめっきり、成のことが話題にあがる機会は減っていたのだが、今回ばかりは、母親たちは息子たちがこのまま別れ別れになることを恐れたのだろう。 「で、どこにあるの、移る先の病院は」 相変わらず母に背を向けたまま尋ねたが、返ってきた答え、その、ここからの距離に俺は思わず目を見開いた。その動揺を母に悟られたくなくて、俺はソファの上で膝を抱えて背を丸めた。  母さん。成。ごめん。俺、こんなで、ごめん。  夕方だというに暑い。季節がすっかり移り変わったことを感じて、西日の眩しさに目を細める。  明日、成はこの街を出て行く。  小学校から大きくは変わらない帰り道の景色。その途中の小さな公園の前で足を止めた。ここが俺と成の、「いつもの」公園だった。お世辞にも手入れが行き届いているとはいえない芝生の上では、あの時の俺たちくらいの少年が二人でサッカーボールを蹴り合っている。一人が狙いを外したボールが、俺の足元に転がってきた。――俺たちも、こうやってサッカーごっこをよくしていたっけ。誕生日に買ってもらったとか言って、成、いつも嬉しそうにボール抱えてきて。あいつも、下手くそだったよなあ。こんなふうに外してばかりで。――ボールを軽く蹴って少年たちに返してやる。ありがとう、と手を振ってくる二人が昔の俺たちにだぶる。  話さなくたって、お互いの姿が見えなくなるほど離れたことなんてなかった。  ――やっぱり不安なんだ。離れることが。  なあ、成。どうして人って、こんなにも遠回りばかりしてしまうんだろうな。俺、本当はずっと、ずっと――  足は自然に動き出していた。数分の後、俺は病室のドアの前に立っていた。綾川のおばさんがいるかと思ったが、どうやら中は成一人のようだ。  ノックする決心がつくまでに、また数分要した気がする。  おそるおそる開けたドアから中を見ると、成はベッドの上に体を起こしていた。驚いてこちらを見るその顔は、――成は普段から顔面蒼白みたいなところがあるがいつにも増して――色がなく、オレンジ色の陽に透き通りそうだった。  病室まで出向いたとはいえ、お互いにとって「話してはいけない」相手。互いの目をしっかり捉え合っているのに、俺はドアの取っ手に手を掛けたまま、成は首をこちらに向けたまま、と、その姿勢から微動だにしなかった。……まったく、何の動物のケンカ勃発寸前の睨み合いだよ。 「きりちゃ……姫木君、どうしてここに……」 成が口を開くまでに、これまた数分はかかったと思う。  ああ、どうしよう。3年の時を超えてついに会話が始まってしまった。何を、何から話せば――  とりあえず病室に足を踏み入れ、ベッドの傍らに近寄る。 「成、あの、お、俺……」 「うん」 成は笑顔だった。本来なら恨んで、憎んで差し支えない人間である俺を前にして、にこにこと俺の言葉を待っていた。  それで、心の中で凍り付いていた何かがじゅうっと溶けた。 「成、あの時、今まで、本当にすまなかった。お前にたくさん、言っちゃいけないこと言って、一生消えない傷まで作って。それなのに、悪いのは俺なのに、お前のこと、勝手に避けて……本当に、本当にごめん」 「……顔を上げて?きりちゃん。……俺ずっと待ってた。またこうして二人で話せるの。待ってたけど、でも、話せなくても、俺は、きりちゃんの近くにいられるだけでよかった。話さなくても、きりちゃんのことずっと見てたし、俺は、ちゃんと知ってたよ、きりちゃんは、ずうっと、強くて、優しくて、かっこいい。きりちゃんは、こんなに強い人なのに、俺みたいなのと友達なんて、そんなのみんなに知られちゃいけないよなって。だから、あんまりきりちゃんに近付きすぎちゃいけないんだなって……」 「それは違う!」 俺が成の言葉を遮ると、成はびっくりした顔をした。俺自身も、久し振りの自分のこんなにも感情的な声に戸惑った。こんな部分がまだ自分にあったとは思わなかったから。でも次の瞬間には、そんなことは気にしていられなくなった。 「俺が成を避けたのは、俺が弱いからだ。俺は強くもないし、優しくもない。……こわかった、自信がなかったんだよ。成のこと全部受け入れる自信が……でも、でも今は違う」 そこまで言うと俺は手を伸ばして成を抱き締めていた。  ああ、成の匂いだ。  俺の腕の中で成は笑い声を漏らしていた。 「ふふっ、やっときりちゃんが、昔みたいにぎゅーってしてくれた」 制服のシャツの胸に、熱い雫が染みを作ったのが分かった。 「成、いつかお前、俺のこと特別だって言ってくれたよな。そんなの、俺だってお前のこと特別だよ。成、お前は、俺の、俺の大事な……」 それ以上は、言葉が続かなかった。俺の心のダムも決壊していた。  俺たちはしばらく黙ってそのままでいたが、身体を離す間際、成がゆっくりと言葉を繋ぎだした。 「ねえ、きりちゃん?俺は、病院を移って、そっちで大きな手術を受ける。学校にもしばらく行けないや。ずっときりちゃんと一緒にいようと思ったのに、留年しちゃったら、ごめんね」 「はは、俺は成が何学年後輩になっても、ずーっとお前のめんどう見てやるよ」 「……きりちゃん、俺、最後にまたきりちゃんと話せて、よかった。俺きりちゃんのこと大好きなんだよ。だからさきりちゃん、俺がいなくなっても、きりちゃんも、もっと自分のこと、ちゃんと好きになって……」 「……っ、何、今生の別れみたいなこと言ってんだよ」 「え」 そこで成の身体は俺から離れた。俺は成の顔を真正面から見据えた。俺が傷付けた、世界で一番美しくて脆いその顔を。 「絶対、ちゃんと治して帰って来るんだぞ。俺、待ってるから。いつまででも、待ってるから」 失くした時間は返らないけれど、これだけ遠回りをした俺たちは、離れても大丈夫っていうたしかなモンを手に入れた。また始めればいい。二人だけの理想郷は、これからの未来に待ってる。 「うん!」 俺を見上げて頷いた成の顔は、幼き日のままの笑顔だった。
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