さよなら主体性

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

さよなら主体性

僕は多分その人のことを忘れはしないだろう。それは昔住んでいた湯河原の町並みを忘れないのと、子供の頃好きだった坂本龍一のメリークリスマス・ミスターロレンスのメロディを忘れないのと、高校の時ふとすれ違った名前も知らない女の子の綺麗な後ろ髪を忘れないのと、きっと同じことだと思う。デヴィット・ヒュームが印象と観念を、感覚が受けたヴィジョンとのちに脳内で思い浮かべることのできるヴィジョンと分けていたこととを考慮すると、僕のこれらの思い出は全て観念であり、一般化されたために諸々の諸要素が抜け落ちてしまっているから完璧には思い出せないのだけれど、それでも僕はそれを思い起こすとあの時感じた切なさとか寂しさとか優しさをはっきりと思い浮かべることができるし、それは完璧に再現されているものだと自負できるものだから、きっと彼女が、もう印象はなくただ僕の中に観念を残していった彼女がたとえぼやけてしまったとしても、いつか感じていた様々な感情を思い起こすことは容易なことで、だから僕は忘れることはできないのだろう。それは昔負った火傷の跡のように、例え忘れようとしても忘れることのできぬまま、心の奥深くに刻み込まれているのだ。 出会って八年、好きになって四年、僕らの間には様々なことがあった。もうこの話を様々な人に様々な形でしてきたものだから別段今ここに書きはしない。だがその様々なことが、終わりもなく、ただ長々と引きずっていくことに僕は何も感じなくなってきたと思う。僕がここにつれづれと吐露するのは過去への嘆きや反省ではない。僕が書きたいのは、僕が考えたいのは、そして僕がここに書き記したいのは、未来への考察であり希望なのだ。そしてそれはこれまでになかった試みであり、決して褒めることはできないけれど、前進しようとする僕の新しい意思の現れだと思う。 何度も何度も、僕は友達に言われた。「これからどうしたいのか」「君は何を思うのか」「なぜ過去にとらわれるのか」。己の意思の弱さ故に分からない、と言ってしまえばそれまでなのだが、数々の哲学者が人間の本質に迫る時に自らの精神を「調査」するように調べてみた結果、「やっぱりわからない」というのが唯一提示できる答えであった。そしてこの点について、僕はデヴィット・ヒュームに賛成しているのだ。すなわち「全て結果には必然的に原因がついてくる、というのは欺瞞である」ということだ。確かにもとをたどれば僕が彼女を性の対象として、女性として見始めたことが原因なのだろう。しかしそこから付き合って、別れて、再び距離を縮めて、失敗して、喧嘩して、疎遠になって、再び距離を縮めつつある今現在、僕が彼女のことを思ったり唐突に脳裏に思い浮かべることはただの現象であり、脳のインパルスやアドレナリンの分泌などという科学的観点からでも見ない限り、僕にとってその事象に何ら原因はないのだ。突然脳裏に、ふと脳裏に、刹那脳裏にと言った具合に、僕個人という主体からみれば一切そこに種はなくいきなり花が目の前に現れたのと同じで、だからたとえそこから根が生え葉が生え花が咲いて、そのインパルスが彼女への明確な愛へと昇華しようとも、決してそこに確実性のある原因は見いだせないだろう。そもそも僕が彼女を愛すことができるのかは全くもって謎なのだが。 ここで僕は愛とは何だとか、人間とは何だとか、他者とは何だとか、そんなゲーテやパスカルやレヴィナスのような哲学的問題について考えたいわけではない。僕が考えたいのは僕自身が何故ここまで彼女について考えているのにその本質に何もないことを平気でいられるかということ、そしてあわよくば、僕が本当はどうしたいのか、ということである。 それならば僕は手始めに、自らに正直にならなくてはならない。恥も外聞も捨てて、僕がこれまで悩んできた様々なことを赤裸々に告白しなくてならない。ウルトラマンコスモスが最終形態エクリプスモードに変身するには優しさと強さと「勇気」を兼ね備えていなければならなかったが、僕はここで自分にいつも足りないと感じる「勇気」を振り絞り、エスプレッソのように抽出しようと思う。 そうかと意気込んでみたは良いものの、僕が苦悩することは、そう大きなものではない。むしろミジンコよりも小さくて、自分自身のことなのに恥ずかしくなってしまうのだ。例えばSNSの写真に知らない男の子が写っていたりだとか、電話でした人を好きになりかけた話だとか、僕の知らない世界を自ら広げていてそれを楽しんでいる様子だとか、本当に些細で、誰も気に留めないようなものに僕は敏感に反応して、そうして文字通り一喜一憂するのだ。ただ落ち込むわけではない。時には彼女と込み入った話をして、まだまだ僕らの関係は捨てたものじゃないと思う時などは少し嬉しく、誰かに優しさを働いた時のように心が温かくなるのだ。だからきっと、いや、確実に、彼女に好きな人ができたら落ち込むだろうし、言い寄られるだけでもハラハラするし、誰かと出かけるだけでも心配してしまうだろう。そしてそれを人は「引きずっている」だとか「メンヘラ」だとか「気持ちが悪い」だとか言って詰るのだけれど、そこに原因がない以上僕にはどうすることもできず、僕としても自分のそんな気持ち悪いところが嫌で嫌で仕方ないのだが、それでもタバコや酒のように止めることができず、ぐるぐると、やめたいけどやめれないという悪循環に陥って、僕は明かりのついたベッドの上でぼーっとしてしまうのだ。 昔確かに認めた事実がある。それは僕が変化を拒み、安定を望んだ事だ。そして僕がそれをいつ彼女に伝えたかは知らないが、彼女はこう言った。 「もし安定を求めたいのなら、君が他に好きな人を作るしかない」 それは圧倒的な事実だ。たとえ彼女に好きな人ができようができまいが、僕はまた悩んでしまうのだろう。現に彼女は僕らの関係性はお互いどちらかに恋人ができた瞬間に終わると言っていた。そしてそこで終わったところで、僕はまた彼女のことを考えてしまうのだ。だから本当にいいのは、僕自身の心が変わり、もう彼女に見向きすることもなく、僕らの関係性が緩やかに終わることだ。 だが悲しい哉、僕は彼女ができない。もしかしたら出来たかもしれない。見栄ではなく僕はついぞ二ヶ月前、人に告白されたばかりなのだ。そして僕は別段恋愛的に好きではなかったが、もし付き合ったなら、この人のことを徐々に好きになって、そうしてあの人のことをもう忘れて、その人ともそのうち別れてしまうかもしれないけど、その内たくさんの恋愛を経験して、大人になって、いろいろな思い出や出来事は忘れられないけど、その人を思っていたあの恋心は忘れられるだろう、そう思って僕はその告白を了承した。 でもそれを僕自身が許さなかった。僕の理性を殺し、一切の人間的合理論を否定した僕が、その重圧感を僕自身に与えてきた。毎日が心苦しくて、心労が絶えることはなかった。そして悲しいことに、そこから僕を救ってくれたのは、他でもない彼女だった。きっかけは単純でいて偶発的だったけれど、彼女と久しぶりに会話をして、あの正月の溝を埋めて、僕は悲しき現状を打破するためにアドバイスをもらって、彼女のことを口実に使わせてもらって相手を振った。もし彼女がいなかったら、僕は今頃どうなっていただろう。苦しいプレッシャーに慣れてその子を愛せていただろうか。それとも本当に嫌になるけど弱いから本当のことが言えなくて億劫になってそのうち「これでいいや」と自分を騙していただろうか。たらればの話なんて今頃したところで何にもなりはしないのに、それでも僕は彼女が僕を救ってくれたことに感謝していて、今の現状に満足していることを否めないものとして認めなければならない。そして友達としてか意中の相手としてか、その関係性は一般名詞で表せるほど単純なことではないけれど、兎にも角にも特別な情を彼女に持っていることを認めなければならない。彼女の性格が好きだから、彼女と話していると落ち着くから、彼女の顔が好みだから、そういう理由はどれも当てはまらず、わがままなところは嫌いだし、話がつまんない時だってあるし、橋本環奈や米倉涼子の顔の方がよっぽど好みだけれど、それでも僕という存在に彼女が欠かせないことだけは確かなことのようなのだ。 だがそれが必ずしも良いものとは限らない。僕の数ある未来を閉ざす門番のような存在でと思うこともある。僕の話は聞かずに、そのくせ自分の話ばかりして疎ましく思う時もある。自分で何かをやろうとする意思はあまりなく、都合の良い時だけ僕を頼って、僕の頼みを何一つ聞くことなくそれが当たり前だと思っている節がある。いいところも悪いところもちょうど同じくらいあって、僕は彼女への好意と敵意が音波のようなウェーブを描いて僕の主観を常に変化させている。そしてそれは、何度も何度も頭の中でたどり着いた結論に僕を導いていく。 彼女がいなくなるのは辛いが、それ以上にその存在に縛られ続ける自分が嫌いなのだ、と。 彼女のことで一喜一憂し、主体性を失い、いつまでもうじうじと悩み続ける僕を僕は好かない。そしてそれを治したいとさえ思うのだが、生まれつきの性格なのか、なかなか踏ん切りがつかず、前に別れた彼女のことはもうほとんど忘れたはずなのに、あの人のことはさっぱり忘れられず、それどころか巨大なラビリンスに放り込まれたような思い出の中で、僕は出口を求めてぐるぐると彷徨っているのだ。そして何を隠そう、その迷宮へと僕を誘ったのは、他でもない僕自身であったのだ。 彼女とどうしたいか、他者とどうしたいか、世界とどうしたいか、その数々の関係性の前に、僕は問わなくてはならない。僕は僕とどうしたら良いのだろうか、と。西田も言うように、汝は我の延長線であり、我は汝の延長線上に過ぎないのだ。結局僕が悩んでいることは僕の延長線上にある彼女のことであり、それはヒュームのいう観念なのだ。僕の彼女のイメージは、僕の中においてのみ成立するのだ。だから彼女のことではない、僕は「僕」のことについて考えたいのだ。だから再び自らに問うのだ。 僕はどうしたら良いのだろう。 僕の中の「僕」、別の「僕」、他者から見た「僕」、文章の中の「僕」、さまざまな僕を分割しながら一括りにする作業を同時並行で永遠と繰り返し、それは破壊と創造の連続した運動の中で生み出される。「僕」という存在。ちっぽけな存在。弱い存在。だが僕はそろそろ哲学的な、客観的な、合理的な思考から離れて自ら答えを出さなくてはならない。 僕は問う、僕はどうしたいのか。 そして僕は答える…。 アニメ、漫画、ゲーム、哲学、両親、友人、恩師、あの人、そして僕自身の全てを取っ払って、僕は僕を見つめる。 あの時の気持ち、この時の感情、目を閉じて、僕は考える。 そして裸も同然の僕の心にふと浮かんだのは、たった一つのシンプルで抽象的な解だった。 前に進むこと。 彼女を得たところで僕に平和なんてない。なぜなら絶えず彼女について考えてしまうからだ。今のままでは何も解決しない。そうでなければこんなにも迷っていないからだ。彼女がどう思っていようが、今の僕には何一つ関係ない。何故なら人の心は結局読めないからだ。 だらだらとした散文の末に、僕はようやく己を見出す。ぐちゃぐちゃな部屋とか勉強していないテストとかバスの座り心地の悪さとかさまざまなことが感覚や経験を通して知覚されて、僕という主体はまるで他人事のように感じるのだけれど、それは僕のことだから、僕の世界のことだから、目をしっかり開いて、眠気を飛ばして、冷たい水を飲んで、そうして僕が僕でもないが、僕が僕でなくもないという考えを今はここから取っ払って、「僕は僕なんだ」と声を大にして叫んで、曲げない信念を持って、崩れることのない「自分」を作って、そうして優しい心で君のことを抱きしめたいんだ。 チープな恋愛ブログを読んでもなんの参考にもならず、結局「自分に自信を持とう!」とかいう自己啓発臭漂う終わり方でシメていたことに怒りや軽蔑の眼差しを隠せないが、それでも僕のたどり着いた答えも僕のことであり、僕がどうあるべきかとか僕が何を基準に判断するかとかよりももっともっと深い、「僕という人間の主体性」について問い始めたから、僕はなんだか自分が進むべき道が見つかったような気がして、少し肩の荷が下りたように思えるんだ。 夜のチェコを窓の外から眺めながら、僕は再び考える。愛を伝えるのか、セックスがしたいだけなのか、それともこのゆるりとした関係を続けていきたいのかはまだわからないけれど、生涯彼女のことを忘れることもないし、僕の存在が彼女に大きく影響されていることだけははっきりとしたような気がするのだ。そしていろんな人や物や事に流されやすい自分のフロウを一回止めて、そうして真剣に考えてみると、僕はどうやら今の現状には不満で、どうにかしたいようだった。 僕はここにいるんだ。 僕は存在しているんだ。 僕はいきているんだ。 僕は… 僕は… 僕は…
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!