序  奏

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序  奏

 放課後のチャイムがひとしきり鳴り渡るなか、管理棟の屋上から足早に駆けおりていってしまった穂坂希の姿を見送ったあとも、嵯峨島はひとり階段室に肩を落として佇んでいた。   ふっと息をつくと右手で胸を押さえ、庇うようになでた。 先刻まで鳩尾のあたりに軽い疼痛を覚えていた。が、今はどうにか治まったようだ。  部活に行く時刻ですからと、文芸部の一年生は今日も嵯峨島の制止を聞かなかった。引きとめようと、ついむきになって、彼のカッターシャツの胸元をつかみかけた。その手を、細身で小柄な男子にしては思いのほか強い力で、振りほどかれた。   階段の途中で穂坂はふいに立ち止まり、振り向いてこちらを仰ぎ見た。 「お願いですから教頭先生」   もとより周囲にひとけのあるはずもなかったが、それでもあたりを憚るように囁いた。 「僕と遊ぶのが目的じゃないなら、お金だけ払って時間を買い取るなんて、浪費はやめてほしいです」   その容姿に似つかわしい、澄んだきれいな声が小さく階段室に響いた。 「わたしのポケットマネーを気遣ってくれるのはありがたいがね」   冗談めかして嵯峨島は応じた。 「しかしなぜだね、穂坂君」 「だって、意味ないと思うし、そんなことしたって」   次の言葉を云いよどむ嵯峨島を残して、穂坂希は階段に軽やかな靴音を立てながら、まさしく脱兎のような素早さで姿を消した。   とり残された嵯峨島は、煙草を取りだすと、階段室の開け放たれたスライド・ドアから一歩出て、南側の校庭を臨む屋上の地面を踏んだ。そうしてひとり思いに沈む。   初秋の緩やかな風が吹いて、コンクリートスラブの上を掃いていく。   すぐ近くに一脚のベンチと、その脇に大きなガラス製の灰皿が載った小テーブルが据え置かれている。教職員用の喫煙スペースだった。もっとも嵯峨島を除けば、ほとんど利用者はいなかったが。   わたしもけっして褒められたことをしているわけではない。いや、むしろ――ベンチに腰をおろし、おもむろに煙草に火をつけながら嵯峨島は考える。表沙汰になれば、それ相応のペナルティは覚悟しておかねばならない。しかしわたしがついていれば、少なくとも彼に、彼自身さえ思いもおよばない災厄の類いが降りかかることだけはないだろう。彼には将来がある。今、彼から平穏な学校生活を奪ってはならない。ことが露呈して世間を騒がすことを懸念するのは後回しでいい。まして自分の処遇の心配など、いまはしている場合ではない。  生徒ひとりの行く末は、一私立高校の風評などよりはるかに重い、と嵯峨島は思っている。 (浪費か……たしかに場合によっては半日一緒に過ごしてもらうこともあるし、そうなるとこっちはけっこうな出費を強いられるが、なに私の貯えなんて、どうせほかに使い道があるわけでもない)   若い時分、妻に先立たれて以来、ずっと独身でとおしてきた。子供たちはとっくに自立している。酒は嗜むが、ほかにこれといって趣味も持たない。目の前に漂う淡い煙をぼんやり見つめながら、嵯峨島はまだ十六歳の誕生日も迎えない少年との、彼の云う浪費を代償として得てきたこれまでの時間に思いを馳せていた。   野球部員のはつらつとしたかけ声に混じって、金属バットの快音が遠くに聞こえる。真っすぐにフェンスまで近寄れば、一足早く下校していく生徒たちの姿が正門を出て行くのが見下ろせるだろう。  日ごと変わらぬ放課後だった。そろそろ職員室にもどらねばならない時刻だ。今日はまだやり残した仕事もある。 自らが顧問を務める吹奏楽部の練習に顔を出さねばならないし、教育委員会が後援する今度のICT関連のセミナーに必要な資料もまとめておかねばならない。セミナーは翌月中旬の予定でまだ日もあるのだが校長の指示だ。心配性なうえに無駄に気が早い。そのくせ間近の文化祭などにはまったく関心を示そうとはせず、計画はすべてこっちへ丸投げしてよこすのだから困ったものだ。おまけにどういうわけか世間知らずで、融通ときたらこれっぽっちも効かないのだから始末が悪い。 (穂坂の件を、あの堅物などの耳に入れられるわけがない)   そう思ったとき、ふいにふたたび胸の疼痛に襲われた。しかも、さきほどとは比較にならない強烈な痛みで、息が詰まるように苦しい。このところ無理がすぎたのかもしれないと思いつつ、半分ほど吸った煙草を灰皿にひねり消そうとした。が、煙草は途中でポトリと指先から落ち、足元に転がった。 「うっ」   嵯峨島の声にならない重い呻きが漏れた。突然、背中に焼けるような激痛が走った。それは鋭利な刃物で神経をぐっさりとえぐられるような容赦ないものだった。 (いかん……)   苦痛に震える身を折り曲げつつ、立ちあがろうと腰を浮かせ、歩みかけたとたん脚がもつれた。よろめいたはずみで小テーブルを蹴り倒した。重みのあるガラスの灰皿が落下して、スラブに衝突する鈍い音がした。眼の前が激しく揺れ、嵯峨島は蒼白な顔で胸を強く押さえたまま、その場に崩折れた。呼吸が苦しく、全身から冷や汗が噴きだすのがわかった。知覚はすでに朦朧として、起きあがることはおろか、もはや呻くこともできなかった。 (……すまない、矢代君)   急激に遠のいていく意識のなかで、嵯峨島はかろうじてそう詫びた。   高三の夏が駆けていった。   新学期がはじまるとツバメように日はすぎて、気がつくと九月もなかばを迎えていた。深刻な温暖化の影響か、真夏の炎熱がいつまでもなごりを惜しむかのような執拗な残暑も、さすがにこのところ溶暗しはじめていた。そして時折は朝夕に清涼な秋風が立った。   翌月早々に開催される文化祭が活性化エネルギーとなって、校内はふだんとはまるで次元の異なる意欲的な活況を呈していた。競争意識が希薄で、じつにまったりとした平穏な空気は変わらない。ただし、その空気は濃厚なお祭りテイストに変換していた。   事件はそんな折、突如として僕らの眼前で起きた。それは本校の教頭、嵯峨島教諭の不可解な状況下での突然の死だったのだが……   そのころ、僕の所属していた文芸部では文化祭の開催にあわせ、季刊誌「どりいむ」の発刊を控えていて、それにともない、部長である僕は考えはじめるとひたすら憂鬱な気分に陥ってしまう問題を抱えて困惑していた。 「聞いてください、先生」   放課後の職員室である日のこと、僕は部活顧問でクラス担任でもある杉崎教諭に対して、それまで蓄積していた愚痴をつい飛ばしてしまっていた。
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