春の座席は甘いので、朝採り&生食がオススメできる話

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春の座席は甘いので、朝採り&生食がオススメできる話

 いつもの駅で、彼がいつものように電車に乗ってきた。  彼はサッと視線をめぐらせた。そして座っている隼人と目が合うと、一度中指で眼鏡を直し、レンズをキラリと光らせる。  その秀才ビームを受けた瞬間、隼人の体の中で、ゾワっとする感覚が末端から頭へと駆け上がった。同時に、全身の筋肉がこわばる。 (なんか、緊張するんだよなあ)  一度言葉を交わした相手を無視するほうが不自然なので、あいさつするくらいは当然である。よって隼人は、初めて会話をした日の翌日より、自分からあいさつをするようにしていた。  ……が、一週間がたつ今であっても、彼にあいさつする前は全身が硬直してしまうのである。  彼が、隼人の前にやってきた。  初めて会話をした日の翌日以降、彼はなぜか毎日、厚めの冊子を右手に持っていた。表紙の厚紙のカラーはいつも違っており、今日は緑色だ。 「お、おはよう」 「……おはよう」  彼は隼人のあいさつを返すと、バッグを左手に持ちっぱなしにはせず、網棚の上の、隼人の野球バッグの隣に置いた。  あいさつのときの笑顔は自然に。噛まないように。顔を赤くしないように。  隼人は頑張っているつもりなのだが、ことごとく達成できていなかった。それでも、鋭い表情ながら彼があいさつを返してくれることに、内心で胸をなでおろすのだった。  初めて彼にあいさつしたときは、それだけで満足した……いや、それだけで満足すべきなのだろうと思おうとした。  毎日前に立ってくる理由――こちらが降りたあと、空いている席に座るため――を知ってしまったので、あまりグイグイ押しすぎると引かれてしまうだろうと考えていたためである。 (でもなー。初めて話した次の日から、なんかこいつの立つ位置が近くなったような気がするんだよな)  もしかして、こちらが話しかけやすいように近寄ってくれているのか?  隼人は期待半分にそう思ってしまう。 (しかも今日は特にヤバいな)  彼との距離が、今日はいつにも増して近いのだ。  そのよく締まっている腹部は、すぐ目の前。シワのないブレザーのきれいな生地と、ボタンがよく見える。  下のほうに目を向けると、両足は完全に揃ってはおらず、左足がほんの少し前に出ている。彼の左膝は、こちらの両膝を少し割って入っているようにすら見えた。  なるべく近いほうがうれしいはずなのだが、いざ近すぎるとドキドキしすぎて体がカチコチになってしまう。光に寄せられるのに、いざ明るいところに出ると動きが止まる夜行性の虫のようである。 (俺、落ち着け……)  隼人が心を落ち着かせるために、鼻から大きく息を吸い、目をつぶった瞬間。 (――!)  電車が揺れ、彼の左膝が、隼人の膝や太ももの内側を撫でるように擦った。  膝が触れた瞬間の危険なくすぐったさ。ちょうど目をつぶったタイミングだったので不意打ちすぎて、あやうく声が出るところだった。 (あ、あぶねえ)  肝を冷やした隼人。変な声が出たりしようものなら一発アウトだ。二度と彼の前には座ることができないだろう。  またまた内心で胸をなでおろす。 (あ、それよりもだ)  隼人はすぐに頭を切り替えた。  大切なのは目の前の現実である。  この状況、今考えるべきことは――。 (ここまで距離が近くなったことは今までないし、せっかくだから、あいさつ以外にも何か話しかけたい)  彼は目の前に立つ理由を明かしているわけだが、それは「そういうことだから、話しかけるなよ」という意味まではないと思っていた。  むしろ、言いづらそうな理由を正直に話してくれて、その後も前に立ってくれて、あいさつまで返してくれているということを考えれば、ここで話しかけても迷惑とまでは思われないのではないだろうか?  そう考えた隼人は、このチャンスを生かす道へと進むことにした。  が……。 (でも何話せばいいんだ?)  彼とは、通っている学校の偏差値が違いすぎる。偏差値が二十違うと話が合いにくいとかいう怖い話をどこかで聞いたことがあった隼人は、話題の選択に悩んだ。 (困ったなあ……向こうのレベルに合わせるなんて、俺無理だし)  うーん、と悩んで髪を掻いて上を向いてしまった……ら、彼とまともに目が合ってしまった。慌てて下げる。  そして下げた視線の先にあったのは、彼の右手にある、謎の冊子。 (お。会話のきっかけはこれがいいか?)  このチャンスを逃すのはもったいない。隼人は思い切ってもう一度顔をあげ、冊子を指さして、言ってみた。 「それ、何?」 「ああ、これはな――――っ!?」 「えっ!?」  彼は冊子に目をやったのち、突然何かに驚いたように目を見開いた。  その反応に意表を突かれ、隼人も驚いてしまった。  お互いが、イレギュラーな顔で見合ってしまう。 (あれ? そんなに意外な質問だったのか? やべ、どうしよ……)  焦った隼人がごくりと唾を飲み込み、のどが動く。首に薄くにじんだ冷や汗のせいで、学ランのカラー部分が滑らず、皮膚を攣った。 「……これは、今日提出する予定のレポートだ」  あたふたしたままの隼人とは対照的に、一足早くいつもの理知的で沈着冷静な表情に戻っていた彼。眼鏡を一度直し、そう答えた。 (よかった)  彼の声の調子から、どうやら質問内容で怒らせてしまった可能性はないようだ。隼人は安堵した。 「そ、そっか。頭いい学校ってそういうの大変そうだもんな。アハハハ」  ホッとすると、今度はあいさつ以外での二度目の会話という気恥ずかしさが隠しきれなくなった。隼人は、また照れ笑いしながら頭を掻いてしまった。  もうちょっと話が広がれば――と隼人はさらなる展開も期待していたが、彼はここで視線を外してきた。隼人の後ろの窓から、遠くを見ているようだった。  そして、そのまま黙り込んでしまった。目もつぶっている。 (あれ? もしかして。毎日一生懸命レポートやってて眠かったのか?)  ひもで綴じられた手作り冊子は、ここ一週間ほどいつも手に持っていたが、表紙の色が毎回違っていた。なので、毎日一冊提出をしていた可能性がある。  もしそうであれば、相当疲労が溜まっているのではないだろうか。質問直後に突然驚いていたのは、眠すぎて何か幻覚か幻聴でも発生したためか。 (やっぱり俺、空気読めてなかったかな)  まだ時期が早すぎた。あいさつ以外で話しかけるのは、彼のレポート提出が一段落ついてからのほうがよかったかもしれない。  隼人がそう反省していたら、いつも降りる駅に着いてしまった。 「じゃあな。大変だろうけど頑張れよ」  隼人はもう一度笑顔で、彼の目を見て、あいさつをした。  すると。  閉じられていた彼の目が、スッと開いた。 「……ああ。ありがとう」  彼もこちらを見て、少し笑った。  その笑顔は今までの怜悧百パーセントなものとは違っており、隼人はドキッとした。  駅の改札を出ると、隼人は歩きながら思う。 (眠気を我慢してこっちに付き合ってくれてたんだなあ。さすが生徒会。優しいな……あ)  なるほど、と隼人は思った。  彼の最後の笑顔は、優しかったのだ。理知的は理知的なのだが、いつもより柔らかく、何かを慈しむような、そんな要素もある笑顔だった。 (あの顔は反則だな)  あれはまさしく――。 (天使……!)  だが隼人は、彼からありがたく頂戴した幸福感を、すぐにしまい込んだ。 (あいつの気持ちに甘えちゃダメだ)  俺ももうちょっと相手を気遣えるようにならないとな、と気持ちを入れ直したところで、校門に到着した。  隼人は、空を見上げた。 (この前あいつのハンドタオル見たからかな? なんか雲がチーバくんの形に見える。やべえ)  苦笑いしながら一つ伸びをすると、校門をくぐった。  * * *  この日はなぜか、いつも乗る電車が非常に混んでいた。  いつもどおり彼の前に立った総一郎だったが、背後の乗客に押し込まれ、彼との距離がいつにも増して近くなった。前に倒れて彼に覆い被さらないよう、左足をわずかに前に出した。  途中、電車が大きく揺れた。  左膝が、彼の鍛えられた太ももの内側をかすめる。 (――!?)  感じ取った弾力は、想像以上のものであった。  やはり野球部、しかもピッチャーの下半身は一味違う。あやうく声が出るところだった。顔が熱くなる。 (まさか鼻血が出たりしないだろうな……)  この近さを生かして彼に話しかけたい衝動にも駆られたが、鼻血が心配すぎた。  この距離で出血すると彼の学ランを汚してしまう。そうなったら一発アウトだ。彼の前に立つ資格を未来永劫失うだろう。  まずは鼻粘膜に意識を集中し、出血がないように祈った。  そして、どうやら大丈夫そうだと思ったところで――。 「それ、何?」  先に彼のほうから、質問が投げかけられた。彼の指先は、総一郎が手に持っていた三百ページ以上に及ぶ想定問答集へと向いている。  総一郎の体は、「待ってました」とばかりに武者震いを起こした。  この想定問答集、初めて彼と会話を交わした日に、人生初の徹夜をして仕上げたものである。これさえあれば、彼からどんな質問が飛んできても慌てずに対応できる。  総一郎は絶対の自信を持っていた。実際、想定問答集の中には今の状況を想定した質問もあったはずである。  だが、しかし。 「ああ、これはな――――っ!?」  満を持して回答しようとしたのだが、思わぬ事態が発生した。 (冊子が開けない……だと……?)  総一郎は一転、絶望の淵へと突き落とされることになった。  そう。せっかく用意した想定問答集が、車内の混雑により開けないのである。  今日はいつもよりも車内が混んでおり、前や左右のスペースに遊びがなさすぎる。このままでは、腕を動かして冊子を開くことは不可能。  とはいえ、肘を張って隣の人を押しのけて冊子を開くのも、後ろを人を無理に押しやって冊子を開くのも、前に腕を伸ばして彼の頭上で冊子を開くのもだめだ。マナー違反であるし無礼すぎる。  そんなことをして、ただでさえ怪しい彼からの評価が下がってしまっては元も子もない。 (模範解答の内容を覚えておくべきだった)  冊子を手に持つ前提でいたため、内容の暗記の時間までは取っていなかった。書いたときの記憶をたどろうにも、人生初の徹夜で朦朧とした状態で作成したので、何を書いていたのかまでは思い出せない。  これは完全な誤算だった。  総一郎としては、「ああ、これはな……」と言って自然体で冊子を開き、該当のページを確認して答えるつもりだった。その構想がもろくも崩壊した。 (まずい)  総一郎は想定外の事態に混乱した。  だが、彼の目が驚きで見開かれたことを確認すると、すぐに体中を落ちつけにかかった。 (顔に出してはだめだ……せっかく質問してくれた彼を不安にさせてしまう。ここは平静を装わなければならない)  質問へのよい返しをひねり出す必要があるが、なかなか思いつかない。  これもタイミングが遅れすぎると彼を不安にさせてしまう。急いで考えなければならない。  押し寄せる焦りの波。  それは次なるミスを生んだ。 「これは……今日提出する予定のレポートだ」  総一郎は言い終わる前に失策に気づいた。 (しまった……)  高校の授業で、こんなに分厚くなるレポートの課題が出されるはずがない。比較的長いレポート課題が出る世界史でも、ここまでの文量を求められたことはない。  これは……彼に信じてはもらえまい。  追及されたらどうする? どうかわす?  訴追の恐れがありますので回答は控えさせていただきます? 記憶にございません? 極めて遺憾であります? 緊急謝罪会見? 体調不良により入院? いや、どの手もまずい。説明責任を果たしたことにはならない。社会的信用の失墜は不可避。  総一郎は頭が真っ白になりかけた。  だが――。 「そ、そっか。頭いい学校ってそういうの大変そうだもんな。アハハハ」  なんと、彼はそう返してくれたのである。 (助けてくれた)  そうに違いないと思った。  客がフィンガーボウルの水を勘違いして飲めば、皆それに付き合ってフィンガーボウルの水を飲む。客に恥をかかせないようにするためだ。  それと同じで、彼はすべてわかったうえで、こちらの至らぬレベルに合わせてくれたのではないか。  あらためて、彼を見た。  彼は頭を掻いている。整髪料を使っていなさそうなサラサラの短髪、その毛先が慈愛に満ちた弾みを見せる。照れくさそうなその笑顔は、まぶしくもあり、穏やかでもあり、柔らかくもあり、そして何よりも優しかった。  これはまさしく――。 (天使……!)  だが総一郎は、彼からありがたく頂戴した幸福感を、すぐにしまい込んだ。 (彼の気持ちに甘えてはだめだ)  今回の失敗は軽いものではない。人間である以上ヒューマンエラーはゼロにはできないが、何度も繰り返さぬよう反省と対策は必要だ。おおもとの原因は、電車は混むことがあるという当然の事象を織り込めなかったことにある。生徒会役員としては非常にお粗末なリスクマネジメントだった。  解決するには……。 (やはり、すべての想定問答を記憶するしかない)  それしかない。そもそも、想定問答集を手に持って乗車すること自体に甘さがあったのだ。三百ページ? そんなものは自分にとってはたいした障害ではない。五百ページだろうが、千ページだろうが、全部覚えてしまえばいい。  すべてを記憶し、自在に引き出せるようにする。それこそが、究極の自己完結型ペーパーレス社会……!  結論が出たところで、彼の下車駅に着いた。 「じゃあな。大変だろうけど頑張れよ」 「……ああ。ありがとう」  ふたたび見た天使の笑顔に、総一郎の顔も自然とゆるんだ。 (さて、と)  彼は下車したが、今日はこのあとにやるべき大事なことがある。  目の前には、彼が座っていた席。いや、彼に温められた席。  いま彼は席を立って下車したため、空席となっている。  実は、初めて会話をした日から一週間経った今まで、彼が温めた席には座れていなかった。いずれの日も、隣やそのまた隣に高齢者が立っており、自分が座るわけにはいかなかったためである。  だが、今日の両隣は二十代とおぼしき男性サラリーマン。近くにも高齢者の姿はない。 (今日こそは、ここに……! 座れる……!)  湧きあがってくる感情としては、恥ずかしさもあるが、やはり嬉しさが大きい。 (今は五月……。春キャベツはみずみずしく、かつ柔らかく、そして甘く、生食には最適だという。じっくりと味わおうではないか)  総一郎ののどが、ごくりと上下した。 (産地直売、朝採り春キャベツ。謹んでごちそうになりま――)  ドン! 「――!?」  一瞬、何が起きたのかわからなかった。  目の前には、ふさがってしまった席。  その無慈悲な現実を目の当たりにしてもなお、状況を理解するまで数秒を要した。  なかなか総一郎が座ろうとしなかったので、右隣に立っていた若いサラリーマンが大丈夫だと判断して座ってしまったのである。 (こ、こんなことが……)  力を失った手から、想定問答集の冊子が離れた。落ち際に指が紐に引っ掛かって解けたが、総一郎はそれにも気づかなかった。 (僕の……僕の朝採り春キャベツが……)  冊子はそのまま落下を続けて満員の通勤電車の床に落ち、ページがぶちまけられた。  なお、次の日は普通に座れた。 (『春の座席は甘いので、朝採り&生食がオススメできる話』 終)
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