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目の前には何度も資料で見た古屋があった。住所も暗記している。旭小夏の家で間違いない。家の中に明かりは見えなかった。
徒歩1分。
護衛のため近くのアパートを作戦本部として選んだが、今日はそれが仇になった。たった1分では名案が浮かぶはずもない。
このままインターホンを押して偶然通りかかったと素直に名乗るか?いや、おかしい。気持ち悪い。
弁当を置いて帰るか?いや、気づかれない可能性がある。それにあまり早く帰るとエリザに怪しまれる。
そもそも旭小夏は自分に会いたくないのではないだろうか。
そんな事を考えていると足の指先からジワリと嫌な感触が走った。先程からより一層雨足が強くなり、スニーカーの爪先から雨水が染み込み始めていたのだ。傘を持つ指先もピリピリと冷え切り、恐らく弁当も冷え切っている。
何をしているんだ、俺は……
雨が傘の表面で弾ける音だけがこだまして、情けなさでいたたまれなくなった。
こんなこと任務に何一つ関係ないじゃないか。自分の人間性の向上など二の次。ターゲットの護衛が今回の任務だ。そうだ、仲良かろうが悪かろうが工夫次第で護衛はできる。
ついエリザに乗せられてしまった。馬鹿らしい。もう帰ろう。
そう思い古屋に背中を向けた時だった。
突然玄関に明かりが灯り、ガラガラと勢いよく引き戸が開かれた。
そこには予想通り栗色の髪が揺れていた。ただ彼女特有のふわふわとした癖っ毛は失われ、雨水を含みダラリと垂れ下がっている。
キョロキョロと左右を見回したかと思えば、そこから覗く必死そうな瞳と視線がぶつかった。八雲の胸は弾かれたようにドクンと脈打つ。
アパートへ向かおうとした足は八雲の意思とは正反対にぴったりと地面に縫い付けられ、遂にはそこから一歩も動けなくなってしまった。
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