宵の散歩

1/11
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ
 蝋燭の火を消せば、月明りだけが頼りの真夜中。寝殿造りのお屋敷。その庭園に作られた池の水際にしゃがみ込む女がいた。着物は深い藍色。暗闇の中では埋没してしまいそうな儚い色。勾当内侍(こうとうのないし)である。  内侍は筆を持っていた。その毛先を池の水へ浸していた。含ませた水が内侍の絵の具。灰色の岩が紙代わり。乾けば何度だって描けるし、乾いてしまえば誰にも見られない。  今宵、描いたのは、恋い焦がれ、帰りを待ちわびる想い人。鎌倉幕府を攻め落とした勇猛な武人で、現在の朝廷において総大将。その人は新田義貞(にったよしさだ)。内侍の夫であった。 「また眠れないのですか?」  幼子を諭すような温もりを与える声が聞こえてきた。しゃがんでいた内侍が立ち上がる。暗闇に顔が隠れていても、その人が義貞であることは声でわかる。はしたないとわかっていながら、駆け寄って抱きついてしまう内侍。義貞の胸に顔を押し当てた。顔を上げないのは今さらの恥じらい。 「約束を守れておらぬようですが」  義貞は抱き付く内侍を引きはがす。俯いた顔を引き上げるために、内侍の小さな顎に手を添えた。それは唇を奪うためではない。顔色を見定めるため。  けれど、わずかな月明りでは、血色までは読み取れない。義貞が見ていたのは、内侍の表情である。よく食べ、よく眠り。体の回復に努めるという約束を守れているかは、目線の動きで読み取れる。後ろめたい時、内侍は大粒の黒目が右へ流れていくのである。  義貞との再会は二ヵ月ぶり。待つばかりの日々は、内侍を乙女のように空想へ誘った。義貞の手の温もりは陽射しを浴びた岩肌に求め、その岩に義貞の顔を描く。誰もいないその時は、唇を重ねることもあった。  病に近い恋心である。会えないということが想いだけを膨れさせ、身も心も蝕んでいくのである。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!