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ほんの数日前にも来た花畑で空を見上げると、あいも変わらず降り注ぐ陽光が眩しく、思わず目を逸らす。自分でもはっきりとわかる衰弱を纏った両手で必死に車椅子を動かす。ギシギシとかろうじて動く車椅子の重さを改めて知り、思いがけず涙が溢れる。
「すまんのう…今までこんな荷物を背負わせてしまって…」
車椅子の上で老人は静かに泣いた。花々を揺らす風が背中を押したように、ゆっくりと小川に近づく。キラキラと反射する光がまるで嗤っているようで情けなさが込み上げる。病院で向けられた視線を思い出し息が苦しくなる。如何しようも無い事実を、それを残酷と知りながら告げる医者の瞳が、今でも脳裏に焼き付いている。橋を渡れず小川を目の前にして止まってしまった車椅子は、力をいれどもピクリとも動かない。それどころか半ば押し返されるようで、老人は力なく笑った。
「生きろと言うのか。お前を失ったこの儂に」
口角を釣り上げても御構い無しに涙が溢れ歪な頬を流れる。口に入った涙は塩辛く、目の前の世界は未だ見た事もないほどに何かが欠けている。その欠けたピースを探しても、それはもうどこにもない。確かに感じる背後の虚無が、遮ることなく風を伝える。長らく忘れていた感覚だった。背中に吹く風は、果てのない彼方を目指す追い風のよう。一体どこへ向かえば良いかもわからないのに無責任に追い立てる追い風が苛だたしい。胸に渦巻く感情が何なのか、老人は答えを探そうと後ろを振り返るがそこに答えはないと知る。この感情を向ける場所もなく、この感情を分け合うことさえ、もう出来ない。
正午の鐘がなる。花畑には燦々と陽光が降り注ぐ。草木を揺らす風の音は、サラサラと老人の背中を流れると小川を超えて彼方へ向かう。あの日のように世界を見つめても、「片割れ」のその景色は数日前とはまるで違う。
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